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なぜ日本で“空気を読めない人”は嫌われる? 背景にあった「自然災害と閉鎖的環境」

中野信子(脳科学者)

2024年09月09日 公開 2024年12月16日 更新

なぜ日本で“空気を読めない人”は嫌われる? 背景にあった「自然災害と閉鎖的環境」

日本の社会は「空気を読む」ことがマナーとして重んじられています。個人の主張は抑え、集団の調和を大切にする文化は、どういった背景で生まれたのでしょうか。日本社会の集団主義と、その影響について、脳科学者の中野信子さんによる書籍『新版 人は、なぜ他人を許せないのか?』より解説します。

※本稿は、中野信子著『新版 人は、なぜ他人を許せないのか?』(アスコム)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

日本は「優秀な愚か者」の国

誤解を恐れずに言えば、日本人は摩擦を恐れるあまり自分の主張を控え、集団の和を乱すことを極力回避する傾向の強い人たちだと感じます。これをあえて自省的に弱点として考える視点で見れば、日本は「優秀な愚か者」の国ということになるでしょう。

日本では、集団の抱えているいろいろな不都合や問題点に気づいて、空気を読まずに指摘してしまう人が、しばしば冷遇されます。そのことを理不尽であると抗議して声を上げたなら、なおさら集団から圧力がかかり、最後は排除されてしまいます。

一方、現代の日本に代表されるような安定した社会で優秀と評価される人は、これもまた自省的にあえて強めの言い方をすれば、「何も考えずにいられる人」かもしれません。

集団のルールを守り、前例を踏襲し、集団の上位にいる人の教えや命令に忠実に従う、従順な人が重用される傾向は否めません。これは政府や企業に限らず、最高学府であるはずの大学でさえ例外ではありません。

日本国内において、東京大学は世界に通用する大学と思われているでしょうし、実際に学位取得者によるノーベル賞受賞者数は、国内で最も多くなっています。しかし、東大も京大も、他の国立大も、独創的な研究ができているかと問われたとき、自信を持って肯定できる人は限られているのではないかと危惧します。

また、個々の事情もあるのでしょうが、最先端の研究をしたいという前向きな理由で海外に出る人もいる一方で、とにかく息の詰まる日本の現状から抜け出したい、逃げ出したい、という人も大勢います。

私は中途半端な研究者でしたので日本に戻ってきましたが、本当に優秀な研究者──特に女性で優秀な研究者は、そのまま戻らないということが相当あるようです。大変残念なことですが、日本国内においては、独創的で自由な研究は、大規模になるほどやりにくい土壌があるのかもしれません。

反面、日本人研究者はイグノーベル賞(「人を笑わせ、そして考えさせる研究」に対して贈られる、ノーベル賞のパロディ)の常連です。これは、お金がかからず小規模でできる研究であれば、結果を出しやすいということを端的に示しているように思います。

チーム内での摩擦を回避するために、イノベーティブ(革新的)な発想力のある人がアイデアを大きな声で主張できず、才能を開花させることができないでいるのだとしたら、これは大変残念なことで、国家の損失だと多くの方が思うでしょう。

ここには日本の大きな特徴が隠れていると思うのです。

日本の研究機関では、例えば研究室という小さな組織のなかの秩序を守ることの方が、独創的な研究を行って業績を上げることよりも重要視される傾向が、海外よりも高いのかもしれません。

スタンドプレーはあまり歓迎されず、教授やリーダーの配下として尽くした研究者が優遇され、将来のポストに恵まれるのに対して、教授やリーダーよりも優れた研究を行えるような突出した研究者は業績を上げても人間関係で問題を抱えてしまうことが多く、どちらかと言えばいわゆる優秀な愚か者とでもいうべき人材が残りやすいと言えます。

優れた研究者が、その優秀なリソースを「愚か者であり続けること」に投じた方が生き残りやすいという状況は、独創的な研究成果を上げるという観点からは非常にもったいないことでしょう。

グローバルスタンダードから見れば、ひょっとしたら日本人は「優秀なのになぜ愚かなことをやめないのか」と言われてしまうかもしれません。

ただ、だからといって「日本はダメだ」と安易に決めつけてしまうのは、それこそ正義中毒的な思考パターンと同じでしょう。日本ではこのやり方が、生き残るためには適応的だったのであり、このやり方に則って行動した方が、生き延び、子孫を残すのに有利だったのです。

また、日本以外の土地でも状況によっては、日本のやり方の方が有利に働くケースだって考えられるのです。

では、なぜ日本が現在のような、社会性が高く、社会や組織の維持のためなら自分の考えを吞み込むことがよしとされる文化になったのかについて、考えてみましょう。

 

自然災害と閉鎖的環境が日本人の社会性を高めた?

日本人の社会性が高いのは「日本が島国だから」、という理由付けがしばしばなされます。簡単に納得しやすいものなのか、それ以上考えている人をあまり見たことがありません。

では、なぜ島国だと社会性が高く、自分の意見を吞み込むようになるのか? 同じ島国でも、イギリスはなぜそうではないのでしょうか?

日本独特の事情として、いくつか注目すべき点があります。まず、気候面の特徴です。降雨量が多く、台風も多く通過します。高温多湿なだけでなく、風水害のリスクが高いのです。これは私が言うまでもなく、特に近年、誰もが強く感じていることでしょう。

もう一つの特徴は、プレートの境界にあるために火山が多く、地震が多発する場所だということです。統計的に見ても、世界中で起こるマグニチュード6以上の大きな地震のうち、約2割は日本周辺で起きています(「平成
26年版防災白書」内閣府)。

これは、日本とイギリスとの大きな違いです。同じ島国でも、自然災害のリスクが高く、恒常的に防災を考えなければならない国とそうではない国とでは、生き残っていくことのできた人間や集団の性質が違うことはおわかりいただけるでしょう。

日本は数千年、数万年前から変わらず自然災害が多いのですから、そうした環境に適応できる、つまり長期的な予測をして準備を怠らない人たちが生き残ったと考えるのが自然です。集団として見れば、構成人員の多くの割合が、そうした環境に最適化された人々である可能性が高いわけです。集団を優先する性質も含め、それが日本という環境における最適化の一つの結果であるのかもしれません。

そして、長年の最適化を経て得られた日本人の平均的な応答からすると、例えば私のような者は外れ値であり、いわば「みにくいアヒルの子」として存在していると言えるかもしれません。つまり、今後何か大きな社会的あるいは環境的な変化があったときに備えるため、バッファとしての多様性の一要素であるという意味を持って存在しているのかもしれません。

ただ、平均的な値に近い人々から見ると、外れ値側にいる人々のことはなかなか理解できず、「あの人はなぜあんなに『バカ』なことをするのだろうか......」などと眉をひそめる、といったことが頻繁に起こります。これは非常に残念なことだと思います。

そして、圧倒的多数派である平均的な(マジョリティの)人々のなかでの「優秀なエリート(逆の視点からは優秀な愚か者)」が再生産され続けるのです。

 

著者紹介

中野信子(なかの・のぶこ)

脳科学者

1975年、東京都生まれ。脳科学者、医学博士、認知科学者。東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。フランス国立研究所に博士研究員として勤務後、帰国。脳や心理学をテーマに研究や執筆の活動を精力的に行う。現在、東日本国際大学教授。

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