アレクサンドル・カバネル《ヴィーナスの誕生》(1863年)
西洋絵画で描かれることの多い裸婦。明治時代には公序良俗に反するものとして大問題になったこともあるといいます。しかし、裸婦は本当にエロティックに描かれたものなのでしょうか? フェティッシュな美術作品の歴史について、書籍『東京藝大で教わる西洋美術の謎とき』(世界文化社)の著者である、東京藝術大学美術学部教授の佐藤直樹さんにお話を聞きました。
絵画に登場したマネキン人形
ジャン=レオン・ジェローム《ピュグマリオンとガラテア》(1890年)
――書籍『東京藝大で教わる西洋美術の謎とき』では、絵画のモデルに使われたマネキン人形について解説されていました。マネキンを使って描くのは普通のことだったのでしょうか?
画家自身も人間を描くときには「生身の人間」をモデルにすべきだとは思っていても、モデルをずっと立たせておくのは難しいですし、お金もかかります。そこで、マネキン人形などを使って絵を描いていた画家は実はたくさんいたのです。
人形という「喋らないパートナー」は経済的にも、時間の節約にもなるでしょう。身体部分はマネキンを使って描いておいて、顔だけは生身の人間をスケッチしてすげ替えることができます。
絵画を展示する際に、この絵は人形を使って描きましたとわざわざ述べる必要はないし、そのことは画家の秘密で良いのです。ただ、その秘密を暴いてみると作品は急に違ったものに見えてくるから不思議です。
これまで絵画に描かれたマネキン人形の存在は見逃されてきました。しかし、マネキンが使われている可能性を念頭に置いて美術史を見直してみると、ルネサンス以降頻繁に人形が使われていたことが明らかになってきました。これまで何度も見ていた作品でも、人形を使っていたことがわかるとまるで別の作品に見えてくるんですね。そこが美術の面白いところだと思いますね。
フェティシズムが先鋭化した
関節人形 (1520年) ボーデ博物館,CC BY 3.0, Wikimedia Commons
――マネキンを描いた画家として、オスカー・ココシュカが挙げられていました。恋人の代わりとして作った人形を描いていたのは、ちょっと不気味です...。
ココシュカの後に続いて、関節人形を作るハンス・ベルメールが出てきたり、日本にも金子國義や四谷シモンといった人形作家が登場しますが、どの作家の作品も女性に対するフェティシズムや、少女・少年性愛的な要素が見え隠れします。また、バルティスに至っては、少女のエロティックな様子を描いて裁判にもなりました。
こういった系譜をみると、ココシュカは、単にマネキンを使って人間像を描いたこれまでの作家とは異なり、人形自体への偏愛を描く一つの転換点だったと言えるでしょう。あるいは、人形やマネキンによってこれまで抑圧されていたフェティッシュな感覚が浮かび上がってきた可能性があるかもしれません。
西洋の裸婦はフェティッシュなもの?
――フェティッシュな作品というと、西洋絵画でよく描かれる裸婦はどうなのでしょう?
日本では、裸婦を描いた絵画が明治時代に大問題になりました。黒田清輝が描いた《裸体婦人像》は下半身を布で隠されて展示されたことがあります。
ヌード(Nude)とネイキッド(Naked)は似ているようで違う概念です。ネイキッドはむき出しの裸という意味で生々しくて、時にエロティックでもあります。
ですが、ヌードは理想化された裸体像なのです。女性のヌードを描く時に陰毛を表現しないことが多いのはそのためでしょう。生の裸を再現しているわけではなく、裸という美しいオブジェを神話に絡めて表現する、古代ギリシャから続く理想的身体表現の系譜に連なっている裸体表現なわけです。だから鑑賞者も、そこに裸が描かれているけれど、生の裸としては認識していないというか。
しかし、日本にはそういう伝統がなかったので西洋文化が導入された時期のヌードは、公序良俗に反しているものとして非難されました。
現在ではヌードを問題にすることはないように思いがちです。ところが、10年ほど前のことですが鷹野隆大による「裸体の自分と男性」を撮影した写真作品に陰部が写っていて不快だという声が多く寄せられ、まるで明治時代のように「わいせつ物の陳列にあたる」として、美術展の会期途中から下半身を隠して展示されたこともありました。鑑賞者は、それはヌードではなく生身の男性裸体像、すなわちネイキッドとして認識したからわいせつと感じたのでしょう。
見る人を不安な気持ちにさせる剥き出しの裸を表現する作品が現れ始めたのは近代以降です。神話的なヌードから生身の人間の裸に移行したのは、レアリスムの流行とも関係しています。
芸術作品として展示されていても不快に感じ、いまだに下半身を隠すこともある。非常に複雑な文化的反応なので簡単に言い表すことは出来ませんが、日本人が明治時代の「裸体恐怖」から本質は変わっていないというのは興味深い事実です。
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ《アポロとダフネ》(1622-25年) 撮影/上野真弓
――では、近代以前の裸婦を描いた作品にはエロティックな視線は入っていなかったということでしょうか?
それはそうとも言い切れません。なかにはわざわざエロティックなヌードに仕上げているものもあります。例えばバロックの巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの《アポロとダフネ》を見ると、神話主題でありながら明らかエロティックな表現を試みています。宮廷の寝室や浴室などにエロティックな作品を飾りたいと考える国王や貴族もいたので、神話主題を選ぶことで、この作品は不道徳ではないと説明可能な隠れ蓑になっていたのです。
(取材・文/小林実央[PHPオンライン編集部])