
日本初の母子漫才師「ワタルwithオカン」のお笑い講演家・ワタルちゃん。相方のオカンはうつ病でワタルちゃんが生まれてからは、ずっと寝込むような状態が続いていたといいます。そんなオカンとお笑い芸人を目指し、コンビを組んだ経緯とは? 書籍『自分が「大好き!」になるオカンの教え』より当時のエピソードをご紹介します。
※本稿は、ワタルちゃん著『自分が「大好き!」になるオカンの教え』(秀和システム)を一部抜粋・編集したものです。
「オカンを笑顔にするため」芸人を目指す
僕は4人兄弟の末っ子というポジションで生まれました。兄弟の構成は、長男の「兄ちゃん」、次男の「兄ちゃん」、長女の「姉ちゃん」、そして「ワタルちゃん」です。
年が離れていることもあって、兄弟たちはそれぞれの世界を持っていましたが、家族全員が共通して楽しんでいたものが一つありました。それが「お笑い番組」です。
毎日、夜になるとテレビを囲んで、家族みんなでお笑い番組を見ていました。何より僕は、兄弟たちが大笑いしているのを見るのが大好きでした。笑いというものは、人を元気にしてくれる力があるのだと、このころからぼんやりと感じ始めていたのです。
お笑い番組が終わると、兄弟たちは番組の出演者のモノマネを始めます。僕も一緒になって彼らの真似をしたり、ふざけたりして、家中に笑いがあふれました。
ですが、家の中で一人だけ笑っていない人がいました。それが、オカンです。僕たちがどれだけ笑い合っていても、オカンはいつも布団の中にずっと横になっていて、僕たちがどれだけ笑っていても、オカンの表情は変わりませんでした。
当たり前の光景ではありましたが「兄や姉から聞いていた元気いっぱいのオカンの笑顔を僕も見てみたい。どうにか笑顔になってもらいたい」と思うようになりました。
僕はオカンを笑顔にするために、ある大胆な計画を思いつきました。
それは「テレビの中にいるお笑い芸人さんたちに直接会って、オカンを笑顔にする方法を教えてもらう」というものです。
「あの中に入ることができたら、オカンを笑顔にする方法がきっとわかるはずだ」
テレビの中にいる芸人さんたちから、オカンを笑わせる秘訣を直接聞けば、きっとオカンを元気にできる。そんな期待を胸に、僕は兄弟たちがいないときを見計らって、こっそりとテレビの前に立ちました。
お笑い番組が始まると、部屋の端から全力で助走をつけて、テレビに飛び込みました。「この中に入れれば、彼らに会える」と本気で信じて......。
もちろん入れませんでしたが、僕は何度も挑戦しました。画面に顔を押しつけたり、テレビの横からのぞき込んだりして、なんとかその世界に飛び込もうと必死でした。
僕にとって、オカンを笑顔にすることは、何よりも大事なことだったのです。
オカンが笑ってくれれば、家がもっと明るくなり、家族全員が元気になる、それを取り戻すことができるのは僕しかいないと、そんなふうに考えていたからです。
結局、何度挑戦しても、テレビの中に入ることはできませんでした。
しかし、ある日、またテレビの中に入ろうと、画面をじっと見つめていたとき、ふと気づきました。テレビの向こう側は手が届かない。でも、僕の目の前には、いつも現実のオカンがいる。僕が本当に向き合わなければならないのは現実のオカンなんだ、と。
もしオカンを笑顔にしたいのなら、テレビの中の芸人さんたちに頼るのではなく、僕自身がその笑いを作り出さなければならない。
そう思った瞬間、僕の夢は決まりました。
「もし僕がお笑い芸人になったら、オカンが笑顔になってくれるかもしれない」
それからというもの、僕の毎日は「どうやったらオカンを笑顔にできるのか?」という問いで埋め尽くされました。
兄弟とのモノマネやふざけ合いも、ただ楽しいだけじゃなくなりました。僕は真剣に、どうすればもっと人を笑わせられるのか、どうすれば笑顔を引き出せるのかを考えるようになったのです。
オカンが笑ってくれることを夢見て、毎日のように兄弟を相手にお笑いの練習をしましたが、オカンはなかなか笑ってくれませんでした。
人を笑わせるのって、ただふざけたり、おもしろいことを言ったりすればいいわけじゃない......。人を笑わせるというのは、実はものすごく深いものなんだと、このころから少しずつ理解していったのです。
偶然を味方にできたことで相方がオカンに
誰に声をかけても漫才の相方を断られてしまう中、僕はいちばん話しやすい存在である姉に相談してみることにしました。
「姉ちゃんに声をかけてみたら、相方になってくれるかもしれない」
そんな予感がしたので、勇気を出し、会話の流れで声をかけました。
「姉ちゃん、一緒に漫才やってくれへん?」
姉からは、間をほとんど空けずに返答がありました。
「なんで漫才なんかせんとあかんねん!」
そのスピード、タイミング、間......すべて完璧なツッコミで、ついに姉からも断られてしまいました。
僕のまわりには、どこにも漫才の相方をやってくれる人はいませんでした。それから、僕は吉本興業の養成所であるNSCに行ってから、相方を見つけようと決心しました。
NSCは、東京と大阪にあり、全国から笑いに自信がある人たちが集まる学校です。ここでは、現在も活躍している芸人さんを数多く輩出しています。
早速、NSCの願書をいくつか取ってきて、願書に記入し、郵便ポストに願書を投函しました。
数週間後、NSCから1通のハガキが届きました。
それは、NSCからの面接日の通知でした。僕は面接日までの間に、最高の自分に仕上げていきながら、変顔を繰り返し練習しました。
さらに、テレビに出たときに「コンビ結成エピソード」を話す機会が必ずあることを考えて、面接会場で相方を見つけようと思い立ちました。
いちばんおもしろい相方との出会い方を考えていったときに「面接会場で隣になった人を相方にする」だったのです。迎えた面接当日。最高の状態に仕上げて、電車に乗り、大阪の難波にあるNSCへと向かいました。
面接会場に着くと、同世代の人たちがたくさん集まっていました。僕は隣の席が空いている席に座り、未来の相方が現れるのを期待して待っていました。
しばらくすると、誰かが隣に座ってきました。
「ついに未来の相方が来た!」とドキドキしながら隣を見ると、家で寝込んでいたはずのオカンが座っていました。
「なんでオカンいるねん!」
驚きながら声を上げると、オカンは震える手で、面接の案内通知のハガキを見せながら「当たると思わんかった、当たると思わんかったんや!」と言ってきました。ハガキを出したら景品が当たる懸賞ハガキのノリで、NSCの願書を出したそうです。
その後、面接が始まり、面接官から「あなたたち親子ですよね?」って聞かれると、オカンはいきなり立ち上がり、面接官の前で、僕も見たこともない一発ギャグを披露し、僕たちの面接は終わりました。 数日後、結果が届き、僕たち親子は無事に面接に合格することができて、NSCに通うことになりました。
当時、オカンは51歳。通常、NSCの入学には24歳という年齢制限があったのですが、ちょうど僕が入学した年から年齢制限が撤廃されていたのです。
オカンは、入学すると同時にNSC史上最高齢のNSC生となり、ここから吉本初のお母さんと息子の漫才コンビである「ワタルwithオカン」が誕生しました。
不思議なことに、この日を境にオカンは毎日起きるようになりました。こうして、僕たちの芸人人生が始まったのです。