真のラストサムライ・小野田寛郎 たくましさのルーツは「名草戸畔」
2014年01月27日 公開 2023年01月11日 更新
《小野田寛郎氏最後の著書『生きる』より》
自然塾は今年で30年目。これまでにのべ2万人を超える子供たちが参加してくれた。こうした活動の中で気づいたことがある。
まだ塾を始めたばかりの頃、親も付き添ってキャンプに来る子が何人かいた。ある時ロープ渡りにその子供が挑戦したのだが、もう少しのところで力尽きて止まりそうになった。私たちはその子供を励まし、下から軽く体を支えつつ最後まで渡らせようとする。渡り終えると「よくやった。今度はできるぞ」と言ってやると、子供は満足そうな笑顔になる。自信をもつからである。
ところが、付き添いで来ていた母親が子供を陰に呼んで、「助けてもらったりして、だらしがない」と叱っているのである。こういうことをやられると、せっかく山の中へ来ているのに家庭の延長になってしまう。子供の注意力が親の方に向かってしまい、親は親で子供を黙って見守るということができない。
私はここに、今日の青少年問題の典型をみたような気がする。親がすべてに手を出し、口を出す。だから子供が素直になれず、問題行動を起こしてしまうのである。植物にたとえると、芽を摘み取られた草花ほど哀れなものはない。芯を打ったり、枝を打ったりするのが早すぎると、樹木も正常な発育ができない。
何を隠そう、私自身がさんざん親に反抗したくちである。だから、こういう子供の気持ちはよくわかる。17歳の時、進路をめぐって親と大ゲンカし、勘当(親子の緑を切ること)寸前になった。私は「勘当されるくらいなら、こちらから勘当してやる」と家を飛び出し、中国大陸に渡って3年半働くことになる。
血気盛んといってしまえばそれまでだが、私には、自分の道は自分で切り拓くという自信があった。また親も、子供はいつまでも自分の従属物ではなく、元服(15歳)を過ぎたら一個の独立した人格だという自覚があった。
昭和49年、ルバング島から帰国して羽田空港に着いた時、30年ぶりに出迎えてくれた父母に向かって私は「ただいま帰りました」と挨拶した。父はただひとこと「うむ」と領き、母は「ご苦労様でした。お礼を申します」と言った。私はそれが当然の挨拶だと思っていた。後で聞いたら、周囲の人は“涙の再会”を期待していたらしく、拍子抜けしたという。しかし、当時の軍人と家族の関係とはそういうものだ。しかも私は当時、既に51歳なのである。
思えば、自分勝手で何をしでかすかわからない、憎まれ小僧の私を、親も先生も辛抱強く、よくぞまともな人間に育ててくれたものだと感謝している。「負けて泣くような喧嘩はするな。勝つ自信が持てるまで我慢しろ」というのが母の口癖だった。短慮な私を何度も叱り、おかげで慎重さ、たくましさを身につけることができた。
小学校に入学してすぐ、ささいなことから同級生と喧嘩になったことがある。同級生がナイフで鉛筆を削っているのを見て、「僕も削りたいから、ちょっと貸して」と話しかけると、「貸さない」と語気荒く突っぱねられた。私はカチンときて「このシブチン(けち)」と言い返したら、相手がナイフを振り上げたので、たまたま近くの机の上にあったナイフで応戦したら、相手は手から血を流してナイフを捨てた。
この事件は学校から親に知らされた。家に帰ると、母から「風呂に入れ」と命じられ、紋付と袴に着替えさせられた。そして仏壇の前に座らされると、「お前を生かしていてはご先祖様に申し開きできません。生んだお母さんにも責任があります。一緒に死んであげるから、先に腹を切りなさい」と短刀を渡された。これには、さすがの私も肝をつぶして「二度といたしませんか
ら、どうかお許しください」とご先祖様に謝って、ようやく許してもらった。私が謝ったのは、それが最初で最後である。
私たちの小さい頃は、よく罰として押入れに入れられたものだ。特に私は暴れん坊で、手足を縛られたので動くこともできず、布団にもぐりこんで寝てしまった。そうとは知らないお手伝いさんが、寝床の準備で布団を出そうとしたら、中から私が転がり出てきたのでびっくりして悲鳴をあげ、大騒ぎになったこともある。
またある時、何度も注意されていたにもかかわらず、遊んだオモチヤを箱に片づけないまま外に遊びに出たことがあった。ちょうどそれは「今度片づけなければ、川に捨てますよ」と最後通告を受けていたときだったから、母は許さなかった。日が暮れてからオモチヤを入れた箱を持って、近くの橋まで連れて行かれた。「捨てなさい」と母から命じられて、私は泣く泣くオモチャを川に投げ入れた。
そんな母は、私の戦死公報が出されても、「あの子は死ぬような弱い子ではない」と陰膳を供え続けたという。この母にしてこの子あり。ルバング島潜伏中に聞いた母の説得の放送は、私にはむしろ激励に聞こえたものだ。あの母が、私に投降を勧めるわけがない。そして、私が昭和49年3月に帰還したとき、母は「陰膳も果てとなりけり梅の花」という句を詠んで、30年続けた陰膳に終止符を打ったという。
私たちの時代の教育とは、多かれ少なかれこのようなものだった。とりわけ私は負けん気が強かったので、親も一筋縄ではいかなかったと思う。
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