野口健 「世界遺産・富士山」に課せられた厳しい宿題
2015年04月28日 公開 2022年11月02日 更新
「ブル道」が禁止されたらどうなるのか
富士山の山肌を、ジグザグに縫う太い道があるのを目にしたことのある人も多いと思う。通称「ブル道」。一部は下山時に利用されることもあるが、あれは基本的に人の登り下りする登山道ではなく、山小屋の資材や商品物資などを荷上げするブルドーザーが行き来する道だ。
「ブル道」は景観を著しく損ねているからやめるべきだ、といわれている。欧米の人たちの環境意識からしたら、考えられない暴挙、とんでもない自然破壊という感覚なのかもしれない。
では、ブルドーザーがダメだということになったらどうなるか。背負い子さんが荷を上げることになる。必然的にコストがぐんとはね上がることになるので、山小屋からは猛反対の意見が上がっているという。
また、河口湖、山中湖といった湖では、モーターボートやジェットスキーを楽しむレジャー客でも賑わっているが、ユネスコはこれらにも異議を唱えている。霊峰・富士を仰ぎみる湖、神聖な場であるべき場所が、このような娯楽目的で使用されているのはおかしい、というわけだ。しかし、これらを全面的に禁止することになると、業者は廃業に追い込まれかねない。
当初、世界遺産になるとだけ知らされたときには大喜びだった地元も、ユネスコから提示された条件に対して、自分たちはどうなるのかという不安が募り、いまや大揺れに揺れている。
すでに世界遺産登録からかなりの時間が経過したが、方向性を明示するような具体的な話はなかなかみえてこない。
一転して「危機遺産」のリスト入りも
2016年までに、すべての課題に対する指針をクリアに打ち出すことができるのか。
「そうはいっても一度決議され、世界遺産になってしまったんだから、こっちのものだ。たいしたことにはならないだろう」
そう、うそぶいた関係者がいる。
その認識は、きわめて甘い。
世界遺産に選ばれた以上、それはもはや日本国内の問題ではない。日本がどういうかたちで富士山を守っていく指針を出すのかを、世界中が注目していると考えなければならない。
もし、期限までにユネスコを納得させられる回答ができなかったらどうなるのか。
富士山は一転して「危機遺産」のリスト入りすることになるかもしれない。
「危機遺産」とは、天災あるいは人災により世界遺産としての「顕著な普遍的価値」が深刻な危機に瀕している世界遺産のことだ。自然環境などの深刻な悪化、文化的意義の重大な喪失、保存政策の欠如などを理由に「危機遺産」に入れられてしまったケースは多々ある。「危機遺産」リストに入るということは、その国には世界遺産を独自に守っていくだけの能力がないとみなされるのと同義なのだ。
場合によっては、世界遺産登録を取り消されることすらありえる。
実際、ユネスコの勧告に応じなかったという理由で、オマーンの「アラビアオリックスの保護区」やドイツの「ドレスデンーエルベ渓谷」などが過去に世界遺産登録から外された例がある。
富士山を世界遺産としてどう守っていくか、自信をもってそれを2016年2月1日までに提示できなかったあげく「危機遺産」入りしたり、登録抹消されたりすることになれば、国際外交における日本の恥だ。
それにもかかわらず、対策はまったく進んでいない。入山者制限にしても、入山料の仕組みと用途にしても、ブル道やモーターボートのことなども、世界遺産に登録申請したら問題化するであろうことは以前から予想できていたにもかかわらず、事態は動かないのだ。
じつは、その背後には、富士山の抱えるもう1つの根深い問題がある。富士山清掃活動を通じて地元との交流を深めていくなかで、環境問題をはるかに凌駕する、富士山のほんとうの課題に僕は気がついてしまったのだ。
なぜ日本を代表するアルピニストは「富士山の世界遺産登録」を嘆くのか。日本が誇る霊峰の驚くべき現状と私たちがいまできることとは?
<著者紹介>
野口健
アルピニスト。1973年、アメリカ・ボストン生まれ。亜細亜大学卒業。植村直己の著書に感銘を受け、登山を始める。1999年のエベレスト(ネパール側)の登頂に成功し、7大陸最高峰世界最年少登頂記録を25歳で樹立。以降、エベレストや富士山に散乱するゴミ問題に着目して清掃登山を開始。2007年、エベレストのチベット側からの登頂に成功。近年は地球温暖化による氷河の融解防止に向けた対策、旧日本兵の遺骨収集活動に力を入れている。亜細亜大学客員教授、了徳寺大学客員教授、東京都レンジャー名誉隊員、山梨県富士山レンジャー名誉隊長を務める。著書に『それでも僕は「現場」に行く』(PHP研究所)『落ちこぼれてエベレスト』(集英社文庫)『写真集 野口健が見た世界 INTO the WORLD』(集英社インターナショナル)他多数。
公式WEBサイト http://wwww.noguchi-ken.com/