《隔月刊誌『PHP松下幸之助塾』[現代に生きる中国古典No.16]より/イラストレーション:瀬川尚志》
上善は水の如し
『老子』の思想を端的に示す言葉の1つに「柔弱謙下〈じゅうじゃくけんげ〉」があります。そのままひらけば、「やわらかく、弱く、へりくだって、下に」となりますが、注目すべきは、いずれも既存の強者や権力者のイメージを反転している点。
●最も理想的な生き方は、水のようなものである。水は万物に恩恵を与えながら相手に逆らわず、人のいやがる低い所へと流れていく。だから、「道〈タオ〉」のありように似ているのである(上善は水の如〈ごと〉し。水は善〈よ〉く万物を利して争わず、衆人の悪〈にく〉む所に居〈お〉る。故〈ゆえ〉に道に幾〈ちか〉し)『老子』8章
●深い徳を秘めた人物は、赤子のようなものである。赤子は、毒虫にも刺されず、猛禽や猛獣にも襲われない。骨はもろく体はやわらかいのに、こぶしだけは固く握りしめている(含徳〈がんとく〉の厚きは、赤子〈せきし〉に比す。蜂蠆虺蛇〈ほうたいきだ〉も螫〈さ〉さず、攫鳥〈かくちょう〉猛獣も博〈う〉たず。骨弱く筋柔らかにして握ること固し)『老子』55章
●聖人は自分から先に立たないので、かえって人に立てられる。自分を度外視してかかるので、かえって人から重んぜられる(聖人はその身を退〈しりぞ〉けて身先〈さき〉んじ、その身を外にして身存〈そん〉す)『老子』7章
●女性はいつも受け身でいながら、それでいて意のままに男性を動かす。受け身であることによってあまんじてへりくだることができる(牝〈ひん〉は恒〈つね〉に静を以って牡〈ぼ〉に勝つ。その静をなす、故によろしく下となるべし)『老子』61章
水や赤ん坊、女性を喩〈たと〉えにして、既存の強者や権力者のイメージの正反対こそ、あるべき姿であることを示しています。では、なぜこうなるのか。ここには、おそらく、
「なぜ強者や権力者が、結局は没落するのか」
という問いが絡んできます。老子が出した答えは、ちょうど「柔弱謙下」の逆で、
「かたく、強く、傲慢で、人より上に行こうとするから」
なのです。実際、この4つは、以下のような問題を引き起こしがちです。
●大きな怨みを買えば、たとえ和解したとしても、必ずしこりが残る。人の怨みを買うのは賢明な処世ではない(大怨〈たいえん〉を和すれば、必ず余怨〈よえん〉あり。焉〈いずく〉んぞ以って善となすべけんや)『老子』79章
●財宝を部屋いっぱいためこんでも、守りきれない。出世して得意顔をすれば、足を引っぱられる(金玉〈きんぎょく〉、室〈しつ〉に盈〈み〉つれば、これを能〈よ〉く守るなし。貴富にして驕〈おご〉れば、自ら咎〈とが〉を遺〈のこ〉す)『老子』9章
強者や権力者は、普通にしていても恨まれ、嫉妬〈しっと〉されがちな存在。そうした下々〈しもじも〉の感情を煽〈あお〉るようなマッチョさや傲慢さを面に出しては、周囲に敵を増やすばかりです。
●強いものは必ず衰える。なぜなら「道」に反しているからである。「道」に反したものは長続きしない(物壮〈さか〉んなれば則〈すなわ〉ち老〈お〉ゆ。これを不道と謂〈い〉う。不道は早く已〈や〉む)『老子』55章
言葉をかえていえば、「剛強で上昇志向の強い者は、目先は勝てたとしても、勝ち続けることは難しい」という洞察をもとにして、『老子』は理想的な処世を考えているのです。
☆本サイトの記事は、雑誌掲載記事の冒頭部分を抜粋したものです。
守屋 淳(もりや・あつし)中国文学者
1965年、東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、大手書店勤務を経て独立。著述のほか、研修・講演も行う。著書に『心をほぐす老子・荘子の教え』(日本実業出版社)、『ビジネス教養としての「論語」入門』『最高の戦略教科書 孫子』(ともに日本経済新聞出版社)がある。