土佐平定へ、剽悍無類の一領具足と謀略の冴え~長宗我部元親の野望
2010年11月10日 公開 2017年03月02日 更新
謀略に次ぐ謀略
元親は返す刀で一条兼定の討伐に乗り出し、ここでも得意の謀略を駆使した。その駒として動かしたのが、弟で吉良峰城主の吉良親貞である。
親貞はまず一条氏の重臣で久礼城主・佐竹義直の誘降に成功すると、今度は蓮池城の城番衆のうち脈がありそうな平尾新十郎、土居治部、沖弥藤次らの籠絡にかかる。贈り物攻勢をかけ、居城に招いて饗応に努めたうえで、寝返りの報酬として10倍の知行を約束した。
かくて迎えた永禄12年11月6日の夜、平尾新十郎らに謀叛を起こさせて蓮池城を急襲占拠し、さらに蓮池の城兵が逃げ込んだ戸波城も攻略してしまうのだ。
憤慨した一条兼定が元親に抗議すると、元親は起請文を送って謝罪した。
「左京進(親貞)と申す者、疎略第一の者にて御座候間、心許なく存じ候と、信濃守(佐竹義直)迄申遣し候き。是非に及ばざる儀に候。今より兄弟義絶致すべし」(『元親記』)
むろん、本心ではない。兼定を欺くための偽りの謝罪だ。
それから2年を経た元亀2年(1571)、かつては"土佐七雄"の一角を占めていた津野氏を降したあと、久礼城を拠点にして佐川城、黒岩城、波川城などを相次いで席捲。またたく間に高岡郡を制圧してしまった。だが、元親は幡多郡への一挙の侵攻はせず、岡豊城へ馬を納めた。
元親がひとまず矛を収めたとはいえ、一条家の動揺は大きい。が、兼定は何の対抗策も講じないばかりか、日夜酒宴遊興に耽り、女色に溺れ、政務も軍務も顧みないという暗愚の将だった。あげくの果ては、主君の所業にたまりかねて諌言した老臣の土居宗珊を手討する始末である。
これでは家中の統制は取れない。家臣の心も離叛する。重臣たちの苦悩は深まるばかりだ。それを見計らっていたかのように、またもや元親の策謀の手が伸ばされた。一条家の家老衆と国人侍36人の城持衆に、「家老衆・国人侍分別により若君(内政)様の御後見も成さるべし......一条御家門(兼定)様を御隠居せられ、若君様を守立てるように」(『長元物語』)と働きかけたのだ。
これを受けて、重臣たちは強行手段に出た。兼定を隠居させ、元親を後見人として内政に家督(かとく)を相続させることで合意。天正2年(1574)2月、兼定をその後室の父である豊後の大友宗麟に預けるという主君追放劇を演じたのである。
だが、この処置をめぐって一条家中に内訌が起こった。元親はその虚を衝いてすかさず幡多郡に侵攻。内政を岡豊城近くの大津城へ移し、自分の娘と娶らせて監視下に置く一方、中村城ヘ吉良親貞を送り込んで幡多郡を版図に組み込んだ。電光石火の早業だ。
翌天正3年(1575)、豊後に逐われた兼定が、南伊予の豪族の支援を得て旧領回復の兵を起こしたものの、元親は四万十川(渡川)の戦いでこれを撃破。同年7月には阿波と国境を接する安芸郡東部の小土豪も掃討した。
永禄3年6月に国親の遺業を継承してから15年、元親はついに念願の土佐一国の統一を成し遂げたのである。