いのちの教育者、辻光文先生(1) 少年少女の自立支援に生きる
2015年12月02日 公開 2015年12月03日 更新
ひ弱な虚弱児童が中学の教師になった
辻光文さんは昭和5年(1930)、東京で、5人きょうだいの次弟として生まれ、秋田の山中の、水道も電気も来ていない臨済宗昌東院で育った。虚弱児だったので、昼食は小使い室の横で特別給食を食べた。名前が光文なので、みんなから「こんぶ、こんぶ、だしこんぶ」とからかわれ、いつも泣きべそをかいていた。だから「泣きべその光ちゃん」とあだ名され、学校に行きたがらなかった。しようがないので母親は手を引いて登校した。でも一人では教室に入れなかったので、母がいっしょに机を並べて過ごすというありさまだ。
辻さんは子どもの頃から、「人と同じではない」ことをとても嫌がった。たとえば、クラスに貧しくて靴下がはけない子がいると、冬のマイナス2、3度の寒さでも自分も裸足で通した。弁当もクラスでもっとも貧しい子どもの弁当のオカズに近い物でなければ持って行かなかった。あるとき、相撲で負かした相手が「光文は卵焼きを食べているから、おれは力負けしたんだ」となじったので、それから一切卵焼きを食べなくなった。小学校六年生のとき、親友の父親が亡くなった。「今日は和ちゃんの家は葬式だから、登校しないだろうな」と悲しい思いで教室に入ると、いたずらっ子にこう言われた。
「やい、コンブ、お前のところは、今日は儲かるなあ」
何をといきり立ったが、相手はもっとからんできた。
「そやないか。おれらの親は汗かいて働いて金を稼いでいるが、お前んとこはなんや。人が死んでお葬式があれば儲かるお寺じゃないか。葬式で飯を食っているんだろ」
そう言われると反論できない。400軒ほどの檀家の法事をして生計を立てているのは事実だ。子ども心に「生きるって何だろう?」「職業って何だろう?」と考え、家職が葬式仏教であることを恥ずかしく思った。
光文さんは高校を卒業すると家出をするように郷里を出て、京都にある臨済学院専門学校に進んだが、卒業しても僧侶にはならなかった。仏教は本来自己探求の道であるはずだが、実際は僧侶が生きていくための糧を得る葬式仏教になり下がっている。だから寺院に入って僧侶にならず、郷里の中学校の教師になった。しかしそれも数年で辞めて、東京に出てきて、自分の生き方を模索した。当時話題になっていた神田寺の友松円諦師にも師事したが、どうもしっくりこなかった。京都の一燈園の西田天香さんにも弟子入りしたが長続きせず、「私は半燈園でしかありませんでした」と自嘲する。
自分が全生命をかけて関わることができる天職が本当にあるのか、それとも人生は口に糊する糧を稼ぐために、汗水流すだけのことでしかないのか苦しんだ。自分の苦しみを、学生時代から師と仰いでいた柴山老師にぶつけると、その都度丁寧な返事がきた。
「拝復 お手紙拝見しました。余りに悲痛なお手紙で、何と返事を書いていいか、わからないほどの気持ちでした。無慈悲なようだけれど、自分で苦しんで苦しんで、絶望のどん底に逆さ落としになるまで、煩悶しつくすことより、他に道はありますまい。親鸞上人の悲痛な叫びと、臨済禅師の悲痛な叫びを知っているでしょう。苦しくても、悲しくても、血の涙を流し続ける、それだけより外ありません(後略)」
柴山老師の見守りだけが救いだった。柴山老師は自分が学費は出すから、もう一度花園大学に戻って探求しなおしたらどうかと勧めてくれた。それで学問し直したが、信念は変わらなかった。
そんなある日、婚約している女性に連れられて、艀(はしけ)で生活している親から離れて学校に通う子どもたちの養護施設である水上学童寮を訪ねた。そこで子どもたちの世話をすることに妙にひかれ、そのまま住み込みで働くことにした。新婚生活は二畳半の狭い部屋で始まった。
そのうち、非行少年少女を更生させるための施設として教護院があることを知った。教護院とは家庭での養育に問題があり、非行に走った子どもたちを育てる児童福祉施設である。しかも多くの教護院は、まず非行少年少女たちの情緒を育てようと、夫婦が十名前後の子どもたちといっしょに生活する小舎夫婦制を採っていた。
辻さんは人一倍敏感な感受性を持っているので、家庭環境に恵まれず、屈折した心境を持つようになり、そのはけ口として非行に走っている子どもたちのことが痛いほどわかった。彼らといっしょに生活して、親代わりをしたかった。辻さんはこれこそが自分がいのちを賭けられる仕事ではないかと感じた。
そこで昭和36年(1961)31歳の時、埼玉県にある国立武蔵野学院教護職員養成所の選科に入って、資格を取った。そして夫婦して大阪の北摂にある阿武山学園に移り住んだ。
非行少年や非行少女たちに必要なものは、訓戒とか懲罰とか指導ではなく、教護や生徒という立場を超えて「いのちが一つになることだ」と感じていた辻さんは、彼らにそれを味わってもらおうと腐心した。そして子どもたちと泣き笑い、取っ組み合いをしているうちに、ようやく歯車が噛み合いはじめ、手応えを感じだした。あっという間に22年間が過ぎ、教護教育界に辻光文という人物がいると注目されるようになった。
佐藤一斎は「晦(かい)に処る者は能く顕を見、顕に拠る者は晦を見ず」(『言志後録』六四条)と言う。暗い所にいる者は、明るい所にいる者のことをよくわかるが、明るい所にいる者は、暗い所にいる者のことがよくわからないと言うのだ。辻さんはずっと迷い続け、中途半端で、挫折することが多かった。人の悲しみを味わい尽くしていた。だからこそ、そういう境遇の者に共感でき、彼らの支えになることができたのだ。