山本周五郎は意地の人である
2016年04月17日 公開 2016年04月18日 更新
PHP新書『山本周五郎で生きる悦びを知る』あとがきより転載
人間の現実でもなく、真実でもなく、本質を描いた作家・山本周五郎
山本周五郎は意地の人である。
つき合う人間を厳しく選択して自分が許す以外は仕事場に近づけず、たとえ訪問してきても滅多に会うことはなく、毎日ペースをくずさずに机に向かって小説を書き続けた。
あらゆる文学賞を固辞し続けたことは有名である。
皇室主宰の園遊会にすら出席せず、「そんな時間はおれにはない。小説家には読者のために書く以外の時間はないはずだ」と言ったという。
きよ以夫人に病気で先立たれた後、きん夫人と再婚したが、横浜市中区間門町の旅館に仕事場を定め、本牧の自宅には年に数度しか帰らなかった。
朝食は自炊、昼食は外食、夕食は夫人が作って、自宅から岡持ちに入れて運んできた。
原稿料は作品を書く前に前借りし、東京や横浜の料亭でことごとく使ってしまう。そうやって自分を追いつめたほうが、いい作品が書けるから、という理由だった。
家族との時間を楽しむことなく、取材以外には旅行に行くこともなく、ただ書き続け、呑み続け、仕事場で倒れ、63歳で逝った。
意地を張り通した人生だったといっていいだろう。
この意地が彼の生い立ちと深い関わりがあるのは間違いない。
山梨県で馬喰、繭の仲買、諸小売りなどを生業とする家に生まれ、貧窮の中で育った。両親の都合で、東京府王子、横浜と転居し、小学校を卒業すると、東京・木挽町の質屋「山本周五郎商店」の丁稚になった。
質屋の名前を自分のペンネームに決めたところにもまた、周五郎の意地が現れている。
自分は自分の人生の全てを引き受け、作家として生きていく─。
もしも周五郎が獅子文六のようなブルジョアの家に生まれていたならば、生涯こうした意地を張り通すことはなかったに違いない。
周五郎は自作の『柳橋物語』の中で、おせんの祖父源六にこう言わせている。
「……人間には意地というものがある。貧乏人ほどそいつが強いものだ、なぜかといえば、この世間で貧乏人を支えて呉れるのはそいつだけなんだから、(後略)」
この言葉通り、周五郎は自分の意地で自分を支え続けたのだ。
では、その意地の根源にあるものとはいったい何なのだろう。
もちろん、権力への反骨精神はあるだろう。
松本清張はこれが激しかった。
周五郎とほぼ同年代の清張もまた貧窮の中で育ち、給仕、印刷工、版下画工と職を転々とし、ようやく朝日新聞西部支社広告部の正社員となったが、独創性を必要とされない職場で給料も安かった。
権力の下で虐げられてきたルサンチマンは深く、それが作家になった後の尋常でない多作のエネルギーとなった。
恐らく清張はどれだけ書いても、どれだけ評価されても、どれだけ金を稼いでも、満足することができなかったのだろう。
周五郎の中にも、自分を認めようとしない世間に対する恨み、つらみはあったに違いない。しかし一方で、自分にしか書けないものがある、自分にしか表現できないものがある、という確信を持っていた。その確信が反骨精神とあいまって、強力な意地をつくりあげていったのではないだろうか。
『Voice』の連載「周五郎は残った」で、私は『赤ひげ診療譚』『青べか物語』『さぶ』『季節のない街』『柳橋物語』『樅ノ木は残った』の6作品を取り上げた。いずれも周五郎の代表作である。
またこの連載を機に、他の作品も読み直してみた。
個人的には、『栄花物語』が好きだ。歴史上、悪人というレッテルを貼られている田沼意次に人間的魅力を感じた周五郎が自らの視点と筆をもって書き上げた力作である。
この作品は『週刊読売』昭和28年1月18日から9月27日にわたって連載された。
ところが、この度の連載でいろいろ資料を読んだところ、それよりもはるかに前に、周五郎が小説に着手していたことが分かった。
それは何と、昭和3年、浦安で仮寓していた25歳の時である。
『赤ひげ診療譚』の構想を始めたのも同じ時期であり、『樅ノ木は残った』は質屋の丁稚をしていた頃から「原田甲斐はけっして悪人ではないんだよ、ぼくは将来、かならず伊達騒動の原田甲斐を書くぞ」と何度も語っていたという。
小説のテーマについて、周五郎は慎重だった。
「いっときの興奮だけで物を書いてはいけない」と自らを戒め、3年、4年と置いてみて、感動が以前と同じ、もしくはそれ以上だったらそのテーマは本物であると判断した。
貧乏という辛酸を嘗めながらも周五郎は、地道な努力を続け、自分にしか書けないテーマを自分の中に構築していったのだ。
『将監さまの細みち』という作品に、周五郎は次のような文をつけている。
「私は自分が見たもの、現実に感じることのできるもの以外は(殆んど)書かないし、英雄、豪傑、権力者の類にはまったく関心がない。人間の人間らしさ、人間同士の共感といったものを、満足やよろこびのなかよりも、貧困や病苦や失意や、絶望のなかに、より強く私は感じることができる。『古風』であるかどうかは知らないが、ここには読者の身辺にすぐみいだせる人たちの、生きる苦しみや悲しみや、そうして、ささやかではあるが、深いよろこびが、さぐり出されている筈である」
これこそ、山本文学の基本であろう。
また「小説の芸術性」というエッセイの中ではこう書いている。
「……或る主題について『書かずにいられないもの』があるとすれば、それはその作者にとって発見であり、他のいかに偉大な作者にも及ばない独自な価値がある筈である。もちろんその『価値』は主観的なもので、それがまさしく表現されて初めて客観的な価値判断の対象となるだろう。私はむずかしいことは知らない。芸術性などということは本当はどっちでもいいので、その小説に作者の『書かずにいられないもの』があり、読者にもう一つの生活を体験したと感ずるくらいに、現実性のある面白さがあれば上乗だと思う」
周五郎の意地の根源には、自分も含めた人間への不信と信頼がある。
『赤ひげ診療譚』の去定はこう言っている。
「人間ほど尊く美しく、清らかでたのもしいものはない」
「だがまた人間ほど卑しく汚らわしく、愚鈍で邪悪で貪欲でいやらしいものもない」
人間の人間らしさを生涯にわたって探求し続け、自らの生活そのものをささげて小説を書き続けたところに周五郎の強さがある。
読者は周五郎の小説の中に自分がよく知っている自分を見つける。また自分が知らなかった自分を見つける。それが明日を生きる希望となり、活力となる。
周五郎の作品が今なお残っている理由はここにある。
福田和也(ふくだ・かずや)
1960年東京生まれ。文芸評論家。慶應義塾大学環境情報学部教授。慶應義塾大学文学部仏文科卒。同大学院修士課程修了。『日本の家郷』(新潮社)で三島由紀夫賞、『甘美な人生』(ちくま学芸文庫)で平林たいこ賞、『地ひらく』(文春文庫)で山本七平賞、『悪女の美食術』(講談社文庫)で講談社エッセイ賞受賞。他の著書に『日本の近代』『人間の器量』(以上、新潮新書)、『昭和天皇』(文藝春秋)、『【改訂版】ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』(PHPビジネス新書)などがある。