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近江商人に学ぶ商いの原点~「三方よし」と「恕」の心

童門冬二(作家)

2016年03月08日 公開 2022年11月30日 更新

「三方よし」こそ日本人が持つ美しい心

 近江商人は、行商という仕事には仏性があると考えました。江戸初期の僧である鈴木正三は、天秤棒を担いで1人で行商する近江商人は「同行二人」だと表現しています。それは、いつも仏様が一緒だという意味です。仏様は、旅の安全とほどほどの利益を保障してくれる。ただ、それにはふだんから自己管理をし、仏に恥じないような行いをしていなければいけない。そのために、ウソをつかないとか、悪い品物を良いといってだまさないなど、やってはいけないことをわきまえていたのです。

 近江商人の典型的な仕事のしかたは、商品サンプルだけを持ち歩いて1人で行商し、地方で商談がまとまると、すぐに近江の本店に飛脚を出して注文をし届けさせるというものでした。ただ、この仕組みで商売をするには、本店の管理が大事になります。経理や在庫管理、近所づきあい、従業員のしつけなどで、それらをやるのはすべておかみさんです。これも近江商人の特性の1つで、江戸初期から近江商人の家における女性の地位が高かったのは、セールスをしている亭主に代わって、本店業務を奥さんが切り盛りしていたからです。

 私はこのルーツは、秀吉が城を築いた長浜(現在の滋賀県長浜市)にあると思っています。当時、秀吉は合戦続きで、妻のねねが長浜城を守っていました。ねねの独立した生き方が庶民のあいだに浸透していく一方で、家来の管理については、ねねが近江商人から学んだと考えられます。

 近江商人のもう1つの特性に「のこぎり商売」があります。これは、地(近江)の品物を持っていって売り、その売上で行商先の生産品を買って帰って、近江のほか京都や大坂で売るというものです。良心的な近江商人は売った代金をすべて仕入れに使いました。各藩が持っている正貨(幕府が発行する通貨)は限られていて、それを藩外に持ち出すと正貨が不足し、藩政府が困ってしまいます。そのため近江商人は、行商先の土地から正貨を持ち出さないよう工夫していたのです。

 ここにみられる近江商人の考え方が、いわゆる「自分よし、相手よし、世間よし」の「三方よし」の精神です。地方への情報提供も「のこぎり商売」も、「相手よし」のサービスです。

 実は私は、この精神が今の社会に広がってほしいと切に願っています。特に東日本大震災からの復興の理念に、「三方よし」をぜひ据えてもらいたい。普遍のヒューマニズムだと思うからです。

 「三方よし」こそ日本人が持つ最も尊い美しい心だと感じたのは1995年、阪神淡路大震災が起きたときです。そのちょうど1年前に海外で起きた大地震で現地から送られてきた映像が火事場泥棒の類のものばかりだったのに対し、日本のそれは、体育館に静かに退避し、きちんと列をつくって配給物資を待っている人々の姿を映したものでした。それを見た外国の人々が感心し、51カ国が外務省に支援を申し出てくれました。そして2011年の東日本大震災では、それが120カ国に増えた。これは日本が大いに誇るべきことです。このとき被災者の中にあったのが、苦痛を味わう人と同じ目線でものを考えようとする姿勢であり、それこそが「三方よし」の精神です。

 

利益は私せず必ず地域にお還しする

 幕末から明治初期にかけての近江商人に小林吟右衛門(2代目、1800~73)という人がいます。行商で成功し、呉服から両替まで営み、近江出身の江戸幕府大老井伊直弼(彦根藩主)の金庫番も務めました。1860年、桜田門外の変で井伊が殺されると、たまたま江戸にいた吟右衛門は店から三千両を持ち出して井伊邸に見舞金として届けました。井伊家にはすでに多額の金を融通していたため、本来であればその貸金を取り立てたいところを、さらに大金を差し出し助けたのです。

 またあるとき、自分が出資する京都の大両替商伊勢屋が倒産し、取付け騒ぎが起こりました。吟右衛門への預金者は、伊勢屋への大出資者である吟右衛門も危なくなるだろうと店に殺到し、預金の払い戻しを求めました。吟右衛門も被害者の一人ですが、彼は預金者の求めに応じて悠然と金を払い戻します。その立派な振る舞いを見て、預金者たちは返してもらったばかりの金を再び吟右衛門に預けたといいます。これらの行為はいずれも、「私心」とは逆の「公心」から出たものといえるでしょう。

 西川甚五郎(2代目、1582~1675)は、当初は江戸をマーケットに近江八幡の畳表を売っていましたが、江戸の建築ブームが終わり畳表があまり売れなくなると蚊帳に目をつけます。下水が汚いために夏には蚊が大量に発生し、長屋の人たちが苦しんでいるのを知ったからです。ところが、つくった蚊帳はなぜかさっぱり売れない。そんなとき、東海道を下る道中の箱根山で、木の下で昼寝をして目を覚ますと、五月の鮮やかな若葉が目に入った。このとき庶民は蚊帳に蚊よけだけでなく涼しさも求めているのではないかと気づき、蚊帳を萌黄色に染め変えて売り出すと、今度は飛ぶように売れました。これも「相手よし」の気持ちから出た発想でしょう。

 また、五個荘を本拠にしていた塚本定右衛門(1798~1860)は、あるとき利益の半分を学校に寄付し、残りを従業員に配分しました。またあるときには、忙しくて遠くに出かけられない庶民が地元で花見や紅葉を楽しめるよう、私財を出して荒地に桜や楓を植えて公園をつくりました。これらも「利益は私してはならない。必ず地域にお還しする」という近江商人共通のコンセンサス(合意)によるものです。

 以前は松下幸之助さんのほか、「三方よし」の商売をする経営者が数多くいましたが、最近の企業は「自分よし」が前に出すぎていて、「世間よし」すなわち社会をよくしていこうという観念が少し足りないようにみえるのが、残念に思います。

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日本社会の基盤にすべき「恕」の精神

著者紹介

童門冬二(どうもん・ふゆじ)

作家

1927年東京生まれ。東京都職員時代から小説の執筆を始め、’60年に『暗い川が手を叩く』(大和出版)で芥川賞候補。東京都企画調整局長、政策室長等を経て、’79年に退職。以後、執筆活動に専念し、歴史小説を中心に多くの話題作を著す。近江商人関連の著作に、『近江商人魂』『小説中江藤樹』(以上、学陽書房)、『小説蒲生氏郷』(集英社文庫)、『近江商人のビジネス哲学』(サンライズ出版)などがある。

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