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近江商人に学ぶ商いの原点~「三方よし」と「恕」の心

童門冬二(作家)

2016年03月08日 公開 2022年11月30日 更新

日本社会の基盤にすべき「恕」の精神

童門冬二 儒教が教える人間の生き方に「修身、斉家、治国、平天下」という思想があります。この考え方を逆にたどると、国が安定した平和経営(平天下)を行うには、江戸時代でいえば270の大名家が管理する藩が自治を確立(治国)していなければいけないし、それには各家庭が家長を中心に責任のあるまとまり方(斉家)をしないといけません。そのためには、家庭を構成している家族の1人ひとりが、世の中に対して身を修める(修身)必要があります。

 ところが、いつからか斉家がダメになってしまいました。家長が家庭をまとめることができなくなっているのです。それは、1つにはIT(情報技術)の影響もあると私は思っています。かつては、家長や地域の年長者などから情報をこつこつ集めて、そこから問題点を取り出し考えるというプロセスがありましたが、今は電子機器が、決断する目前までありとあらゆる情報を提供してくれます。それによって一人ひとりが個別に「物差し」を持つようになり、注文の多い、うるさい人間が増えてしまった。また、ITの発達によって個人の可処分の対象になった時間とエネルギーを、「世間よし」のためではなく「自分よし」のためだけに使ってしまっています。それでは社会は成り立ちません。共通の基盤になるような社会のコンセンサスが必要です。

 そこで私が現代日本のコンセンサスとして提言したいのが、孔子の説く「恕」です。3千人はくだらなかったという孔子の弟子の1人に、子頁という人がいました。弟子の中で自分がいちばん出来が悪いと自覚していた子頁は、あるとき孔子に、「この私が、それさえ守れば人として生をまっとうできるという一字があったらお教えください」と乞います。すると孔子は、「それは恕という字だ」(「子曰、其恕乎」)と言いました。あとに「己の欲せざるところ、人に施すなかれ」と続く、有名な一節です。「恕」の意味が「いつも相手の立場に立ってものを考えようとする、やさしさと思いやり」だと知り、これだと悟った子頁は終生それを守り、仕えた多くの王に対しても、「君主たるもの、恕の精神を持たなければいけない」と進言したといいます。私は、近江商人の「三方よし」の根底にも、この「恕」の精神があると思っています。

 近江商人のスピリットには、「商いの原点」にとどまらない「人間の原点」も感じられます。もちろん、近江商人のスピリットをすべて取り入れるべきだとはいいません。よいものをパーツとして取り入れればいいのですが、彼らが示したヒューマニズムは、私たちが身につけておかなければいけない原則ではないでしょうか。その一つが「恕」であると思うし、日本人はもともと自分の中にそれを持っている。だからまずは一人ひとりが、それを自分で掘り起こすことから始めるべきだと思うのです。

 

著者紹介

童門冬二(どうもん・ふゆじ)

作家

1927年東京生まれ。東京都職員時代から小説の執筆を始め、’60年に『暗い川が手を叩く』(大和出版)で芥川賞候補。東京都企画調整局長、政策室長等を経て、’79年に退職。以後、執筆活動に専念し、歴史小説を中心に多くの話題作を著す。近江商人関連の著作に、『近江商人魂』『小説中江藤樹』(以上、学陽書房)、『小説蒲生氏郷』(集英社文庫)、『近江商人のビジネス哲学』(サンライズ出版)などがある。

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