野村忠宏 オリンピック3連覇を支えた勝負哲学
2017年02月08日 公開 2017年02月10日 更新
取材・構成:平出 浩、写真撮影:永井 浩
結果も本当の喜びも限界を超えたところにある
みずからが理想とする一本を取る柔道を貫き、オリンピック3連覇という偉業を成し遂げた野村選手。その裏には、勝ち続けることへの重圧や恐怖感が常につきまとっていたという。それでも困難から逃げることなく、限界を超えて自分流の柔道を突き詰めていった原動力は何だったのか。全力で戦い抜いて現役を引退した今だからこそ語れる、勝負の世界の真髄とは。
まず基本を身につける。そして、自分流を磨く
私自身はアトランタ、シドニー、アテネと、3つのオリンピックで金メダルを取っていますが、弱い時期の長い選手でした。
柔道は祖父の開いた道場で3歳から始めましたが、思うような成績はなかなか残せませんでした。中学時代には女子選手に負けたこともあります。
高校3年でやっと奈良県のチャンピオンになれたけれど、インターハイでは1勝もできなかった。例えば、井上康生は小学生の頃から実力が知れ渡っていて、中学時代には「山下二世」(山下泰裕氏の二世)とまで言われていたのとは対照的です。
オリンピックに出るような選手は子供の頃から強く、注目されていた人が多い。でも私は、ずっと弱かった。体は小さく、力もそれほど強くない。そうした中で、どんな柔道をしたらよいのか、いろいろ模索してきました。
投げられるのがとにかく嫌だったというのも、私の特徴かもしれません。指導する先生には「投げられてもいいから思いきりいけ」とよく言われましたが、私は投げられるのが嫌で仕方がなかった。だから、投げられそうになると、相手にしがみついてでも、投げられまいとしていました。
のちに「投げられない野村」「一本を取られない野村」とプロの人たちに評していただけるようになったのも、子供の頃から、こうした自分なりの姿勢を貫いていたからかもしれません。
高校生になると、「組まない柔道」をしていました。組む柔道では、勝てなかったからです。
体が小さく、力も強くない。そんな自分が勝つにはどうしたらよいか。それで私が考えたのは、スピードと反射を活かした柔道でした。相手の袖を持って揺り動かして、相手の体勢が崩れたところで技をかけるやり方です。
しかし、練習をしていたある時、指導者でもあった父に呼びつけられました。
「今だけ勝てる選手でいいのなら、そういう柔道をしたらいい。だが、本物の実力を備えた柔道家になりたいなら、その柔道はするな。今は勝てなくてもいいから、しっかり組む柔道をして、背負い投げを磨きなさい」
父のこの言葉を私は素直に受け入れ、進むべき柔道の方向を修正しました。
子供たちには、まず基本となる「組む柔道」を教えたいし、その柔道を学んだ上で、それぞれ自分の柔道をみつけて磨いていってほしい。「自分流の柔道」を追求するのは、基本を身につけてからだと思うからです。