四天王寺(大阪市)
聖徳太子が叩きつけた日本の「独立宣言」
聖徳太子が摂政を務める推古朝が成立するその12年前、中国大陸では長い分裂の時代が終焉を告げ、隋王朝という巨大帝国が誕生した。隋王朝は成立した時点から歴代中華帝国の伝統に従って周辺国への侵略、圧迫を始めたが、604年に2代目皇帝の煬帝が即位すると対外的覇権主義政策がよりいっそう加速化した。煬帝の下で、隋帝国は大規模な高句麗征伐戦争を数回行なっただけでなく、朝鮮半島南部の百済と新羅を朝貢体制に組み込んだから、その勢力範囲の拡大が日本にまで及んでくるのは、もはや時間の問題であった。
593年から推古朝の摂政となって日本の内政と外交を司る聖徳太子にとって、隋帝国にいかに対処するのかは当然、喫緊の政治課題となっており、隋の存在と動向を無視することはできなくなっていた。
そこで大和朝廷は、まず600年に初めて使者を隋王朝に派遣して接点をつくった。そして607年、小野妹子を国使として隋王朝に遣わした。そのとき、妹子が携えていった大和朝廷の国書が、日本と隋帝国との間でちょっとした外交問題を起こしたことは、あまりにも有名な話である。
推古天皇から隋の煬帝に宛てたこの国書は、「日出づる処の天子、書を日没するところの天子に致す、恙なきや」との書き出しから始まるが、この書き出しの文言は煬帝を激怒させるのに十分であった。
歴代中国王朝の世界観からすれば、これはとんでもなく挑戦的な言辞であった。なにしろ、世界の上には「天」というものがあって、天帝が宇宙の森羅万象すべてを支配する一方、「天下」、すなわち天の下の世界では、天帝の子である「天子」こそが天命を受けて「唯一の統治者」となるべき存在なのだから。中国王朝の世界観からすれば、中華帝国の皇帝こそ「天命」を受けた唯一の天子であり、この世界の頂点に立つ唯一の支配者なのである。
したがって、この世界で「天子」と称することを許されるのは、中華帝国の皇帝のみである。実際、中華帝国を中心とした朝貢体制のなかでは、周辺国の国王や首長は、誰一人として「皇帝」や「天子」と号することはできず、皆、中華帝国皇帝の「臣下」として、皇帝よりも一段下の「王」の称号を頂戴することとなっていた。
たとえば、朝鮮半島の百済の王は隋の煬帝によって「上開府儀同三司帯方郡公百済王」に封じられ、新羅の国王は同じ煬帝から「上開府楽浪郡公新羅王」との称号をもらっている。
彼らと煬帝との関係は、少なくとも形のうえでは、中央の唯一の皇帝=天子とその家来である各地方の首長という関係になっているのである。
しかし唯一、日本の推古朝だけは、隋王朝に国家間の交流を求めながら、隋の煬帝に「称号」を求めるようなことは、いっさいしなかった。それどころか、推古天皇自身が前述の国書において、隋の煬帝しか称することのできないはずの「天子」を自ら名乗って、もう一人の「天子」である煬帝に「書を致した」わけである。
煬帝の立場からすれば、日本の推古朝がこのような国書を送ってきたことは、中華皇帝こそ唯一の天子であり世界の唯一の主人であるという中華帝国の世界観を根底からひっくり返す前代未聞の「下克上」であり、中華帝国と皇帝の権威に対する許せない挑戦であっただろう。だから、国書を受け取った煬帝はたいへん立腹して、「蛮夷の書、無礼なる者有り」と怒鳴ったと、中国の史書に記載されている。
しかし日本の立場からすれば、推古朝が摂政の聖徳太子の主導下で隋の煬帝に送ったこの国書こそが、中華帝国に決して従属しないという日本国の決意の表明であり、日本が中華帝国とは対等の国家であることを世に示した日本の「独立宣言」そのものだったのだ。推古天皇は自らを「天子」と称することによって、しかも「日出づる処の天子」という優越感さえある表現を用いることによって、中華帝国に対する日本の独立した地位と、この独立した地位を守り抜くという日本人の気概を誇らしく示したのである。
「海西の菩薩天子」という口上の深意
このようにして、隋煬帝への国書の書き出しの文句からは、中華帝国に対抗して日本の独立を保とうとする推古朝と聖徳太子の決意のほどがよくわかるが、実はそのとき、国書を携えて隋王朝を訪れた使節の小野妹子が冒頭の挨拶において、一つの興味深い口上を述べたことが中国の史書に記録されている。
『隋書』東夷伝倭国条の記述によると、それはこうである。
「海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと聞く。故に使いを遣わして朝拝せしめた。兼ねて沙門数十人来りて仏法を学ぶ」
ここでの「海西の菩薩天子」とは隋王朝の皇帝を指している。隋の文帝・煬帝という二代の皇帝は、共に仏教の振興に熱心だったからである。
注目すべきは「海西」という言葉である。確かに日本列島から見ると隋王朝のある中国大陸は「海の西」の方角であるが、中国の王朝に対してことさらこの言葉を使うのには、それなりの深意があると思われる。なにしろ、中華王朝の抱く世界観では、周辺の「蛮夷の国々」を含めた「天下=世界」は、中華朝廷を中心に広がる同心円的なものであった。中華朝廷と中華皇帝こそが世界の中心であり、そこから遠ざかれば遠ざかるほど「野蛮化外」の地となっていく。したがって隋王朝から見れば、中華朝廷と「蛮夷の国」日本との間には「海の西」も「東」もなく、ただ「中央」と「周辺」という関係があるのみである。
そう考えると、推古朝の使者である小野妹子が「海西」という言葉を発したのは、単に地理上の事実を述べただけではないだろう。それは、中華朝廷を中心とした世界観の否定であり、「周辺」からの「中央」への反発とも捉えることができる。言わんとするところは要するに、わが日本から見れば、あなた方、中国王朝は世界の中心でもなければ「中華」というものでもなく、単なる「海の西」にある一つの国であるにすぎないのだ、ということであろう。「外交」とは「言葉による戦争」であるとよく言われるが、ここでは「海西」という言葉が発せられることによって、中華王朝の周辺国に対する優位が一挙に相対化されたことになる。巨大な中華帝国は、海の向こうにある「普通の国」の一つにされてしまったのである。
さらに、これに続く小野妹子の言葉こそが、最大のポイントである。曰く「海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと聞く。故に使いを遣わして朝拝せしめた」。ここでは日本からの使節は、自分が大和朝廷の国書を携えて隋王朝を訪問した目的を述べている。「隋王朝の天子様が仏法を興すのに熱心であると聞き、わが朝廷は私を使いとして遣わした」というのである。
隋王朝にとって、これも耳を疑うほどの信じられない言葉であろう。有史以来の中華王朝対周辺国の関係において、「蛮夷の国」が中華朝廷に入朝してくる目的はただ一つ。すなわち、中華王朝ならびに中華皇帝の「徳」を慕って、中華文明の「教化」を求めてやってくるのだ。
しかし日本使節の述べた口上は、中華帝国有史以来の正統観念を破った。日本は別に中華皇帝の「徳」や朝廷の「教化」うんぬんを求めてきたわけではない、という意を含めたうえで、「仏法」を訪問理由の中心にもってきたのである。つまり、隋王朝の天子さまが「仏法」を崇敬しそれを興すのに熱心だと聞いているからこそ、われわれは訪れてきたのであり、そうでなければここに来ることもなかった、と言わんばかりである。
そこには明らかに、「仏法」を隋王朝の皇帝のさらに上位に置き、逆に仏法の優越性をもって中華皇帝の権威を相対化しようとする意図が読み取れる。いうまでもないが、仏教とは中国文明から生まれた教義ではない。高度な文明国の中国ですら受け入れざるをえなかった外来宗教なのである。しかも、その仏教は中国を経由して朝鮮半島、日本へと伝わり、東南アジアにも影響を及ぼしている。中華文明の「教化」などより、仏教は遥かに普遍的な価値を持つ世界宗教なのである。