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「砂漠の狐」ロンメルが上官から指摘された“性格的な欠陥” その背景にある事情

大木毅(おおきたけし:現代史家)

2019年04月26日 公開 2022年07月11日 更新

 

複雑なドイツ陸軍の「将校採用システム」

ここで、当時のドイツ陸軍の将校採用システムを説明しておこう。他国と比べて、非常に複雑なものだが、なぜロンメルが「傍流」であるかを理解するには、必要不可欠の知識だからである。

19世紀のドイツにあっては、将校志望の少年は、早ければ10歳で、陸軍幼年学校(Kadettenschule:カデツテンシューレ)に入学する。

このように称する施設があったのはプロイセンだけだが、バイエルンなど、他の諸邦においても、同様の学校が置かれていた。

ついで、ベルリンのリヒターフェルデにあった陸軍士官学校(Hauptkadettenanstalt:ハウプトカデツテンアンシュタルト、直訳すれば、「陸軍中央幼年学校」ぐらいになるが、機能に則して、「陸軍士官学校」の訳語を当てた)に入る。

陸軍士官学校は、14歳以上の志願者を受け入れ、陸軍幼年学校卒業生のみならず、一般の学校を出た者も採用する。

わかりにくくなるのは、このあとである。他の軍隊一般とは異なり、ドイツ帝国においては、陸軍士官学校卒業イコール将校任官とはならないのだ。

陸軍士官学校生徒は、第11学年修了時(おおむね18歳)に、少尉候補生試験を受ける。それに好成績で合格すると、「帯剣待遇少尉候補生」と認められ、どこかの連隊に入隊する。

階級としては軍曹の上であり、少尉候補生の軍服を着用することが許された。しかし、そののち、入隊した連隊の長が、剣の佩用を認め、「有権少尉候補生」とするまでは、指揮権は与えられない。

ただし、「帯剣待遇少尉候補生」になれない者が多数派であり、彼らは、連隊で任官する前に、軍事学校(Kriegsschule:クリークスシューレ)に送られ、8か月から1年半、「少尉候補生」として過ごす。

この軍事学校は、日本の文献や邦訳書では、しばしば「士官学校」と訳され、誤解を招いている。が、実際には、軍の組織から射撃までの実務を教える学校なのである。ここを卒業して、ようやく少尉に任官できる。

さらに複雑なのは、少尉候補生試験に落第した陸軍士官学校生徒は、第13学年修了時に、大学入学資格試験(アビトウーア。これに合格すれば、どこの大学にも入学できる)に相当する試験を受け、きわめて優れた成績を収めた者は、少尉に任官し得ることだ。

ごくまれではあったが、先任順序をさかのぼらせることも認められた。先任順序とは、その身分や階級に付いた時日にもとづく序列であり、それが高い者ほど、進級なども優先されるのである。

なお、上記のような公のシステムのほかに、希望した連隊の将校団が一致して認めなければ、当該候補生は入隊できないという慣習があり、「将校適性階級」以外の者が騎兵連隊や近衛連隊へ入隊する際に、一定の障壁となっていた。

 

エリート身分ではあったが前途有望とは言い難かったロンメル

では、ロンメルもまた、こうしたキャリアパスをたどったのだろうか?

むろん、ちがう。

高度の自治性を保っていたヴュルテンベルク王国においては、その軍隊も独自の将校採用を行っていた。入隊希望の連隊の許可を得た上で、少尉候補生試験に合格すれば(落ちる率は低かった)、採用されるのである。

ただし、このコースを経て入隊したのちは、まず下士官・兵として勤務する。ロンメルも同様の経緯をたどり、1910年10月には一等兵、同年12月には伍長に進級した。

しかし、ヴュルテンベルクで受けられる教育訓練はそこまでで、1911年3月に少尉候補生に進級したロンメルは、バルト海沿岸のダンツィヒ(当時プロイセン領、現ポーランド領グダニスク)軍事学校に送られた。

だが、そこでの成績は、ずばぬけたものではなかったらしい。卒業時の執銃教練は「優」、指導力は「良」、その他の重要な科目は「可」であったとの記録が残っている。

この程度の成績では、華々しい軍歴は望めない。1911年11月、ダンツィヒ軍事学校を卒業したロンメルは、1912年1月に少尉に任官し、第124連隊に勤務することになった。

さりながら、1912年から1913年までは同連隊の新兵教育係、1914年三月から7月までは、ウルムの第49野砲兵連隊付と、現場の勤務を続けていた。

ちなみに、兵科がちがう砲兵付とされたのは、第49野砲兵連隊が第124連隊と同じく、第24師団の隷下(軍隊用語で、継続的に上級組織の指揮下にあること)にあり、歩兵と砲兵の協同能力を高める目的で、相互に将校を交代させる慣習があったためである。

けれども、将校任官後は格式の高い連隊に勤務し、いずれは陸軍大学校(クリークスアカデミー)に入って、参謀将校の資格を得るのが、当時のドイツ軍における出世コースであったことを考えれば、ロンメルが、将校というエリート身分に仲間入りしたとはいえ、軍内部では、前途有望という存在ではなかったことが推測できるだろう。

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「病的な功名心」は出世コースを外れていたから?

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