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生き方

「右腕の切断」を宣告された少年に起きた“奇跡”

山田清機(ノンフィクション作家),〔撮影〕尾関裕士

2019年11月08日 公開 2022年12月19日 更新

 

いじめられた記憶はない

芦田創

小学校に入学した芦田は「まるで記念日のように」、毎年デスモイド腫瘍の切除手術を受け続けた。芦田が腕の手術痕を指差しながら言う。

「たしか六回ぐらい受けたんじゃないでしょうか。どの傷が何回目か、もうわかりません。傷の横に入れ墨で通し番号を打っておけばよかったですね(笑)」

腫瘍の侵食を受けた尺骨を切除しているため、芦田の右上肢には橈骨一本しかなく、太さも左上肢の半分ほどしかない。

腫瘍の除去をすると1週間から10日間は入院しなくてはならず、それ以降はギプスをはめて通院しながらの加療となるのだが、ようやくギプスが外れたかと思うとすぐにまた腫瘍が再発した。

しかし、入院は悪いことばかりではなかった。芦田は相部屋になった大人たちと、積極的に付き合った。

「大部屋でお爺さんと一緒になると将棋を教えてもらったり、大学生にトランプを教えてもらったり。普通の子どもは知らないこともずいぶん教えてもらったので、小学校に戻ると、同級生になんとなく違和感をもちました」

特に強い違和感を覚えたのは、養護学級の生徒に対するいじめだった。病院にはいろいろな人がいて、それが当たり前の世界だったから、養護学級の子をいじめる同級生たちの心理が芦田にはよくわからなかった。

「なんであんなことすんのやろって、いつも思っていました」

両親は病気を嘆くよりも、徐々に右手が使えなくなっていくのは「当たり前だ」という雰囲気をつくること、そして、先手を打って将来に備えることに必死だった。幸浩が言う。

「親は毎日毎日、張り詰めた気持ちで過ごしていました。右手が完全に使えなくなることを予想して、小学校1年生のときから箸も鉛筆も左手に換えさせました。左手へ切り替えるのは障がいがあるからではなくて、それが普通のことなんだよと教えていました」

智恵は、運動ができない分、勉強では絶対に負けるなと発破をかけ続けた。芦田は小4から学習塾に通い、入院中も猛勉強をした。結果、学校を休んでばかりなのに、勉強ではいつもトップ、体育も見学ばかりだったのに、運動会で走れば常に1着だった。芦田が言う。

「だから僕、いじめられた記憶ってないんです。ただ、妬まれたことはありますよ。あいつ、手が変なのになんでいつも一番なんやって」

幸浩も智恵も「不自由」「障がい」といった言葉を家庭内で使わないようにしていたが、幸浩はたった一度だけ、芦田に尋ねてみたことがあった。

「パパは両手が使えるけど、おまえは右手が使えなくて不自由やろな」
「そもそも右手を使えたことがないから、不自由だと思ったことないよ」

子ども時代、芦田は自分を障がい者だと思ったことは一度もなかったという。

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「切断」という二文字の衝撃

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