(写真:著者提供)
急速に台頭する中国の脅威に対抗するためロシアと連携しようという意見がある。安倍政権の対露外交の背後にも中国への脅威認識が常に存在してきたと思われる。
しかし、この考え方は、ロシアが日本と同じように中国への脅威を感じている筈だという前提に基づいている。多くの異なる条件を抱えた日露の対中認識は、果たして簡単に一致するものだろうか。
本稿では、中露国境の街・ハバロフスクを訪れた筆者が現地で目にした中露の格差と、現地関係者の中国観を通じて、ロシアの対中認識を読み解くためのヒントを探る。
※本稿は小泉悠著『「帝国」ロシアの地政学』(東京堂出版刊)の内容を一部抜粋・編集したものです。なお、小泉氏は同作にて「第41回サントリー学芸賞〔社会・風俗部門〕」を受賞しました。
国境の街・ハバロフスク
19世紀半ばにロシア帝国が極東進出の拠点としてアムール川沿いに築いた街であり、その名は17世紀に極東を探検したロシアの探検家エロフェイ・ハバーロフにちなむ。現在も極東連邦管区の全権代表事務所が置かれており、「極東の首都」と呼ばれるほか、東部軍管区司令部を擁する軍都でもある。
それだけに街並みは想像していたよりもずっと立派だったが、その前に訪れたリガやタリンと比べるといかめしい印象も強かった。通りやレストランでも制服姿の軍人が目立つ。
ハバロフスクはまた、国境の街でもある。筆者が泊まったホテルのすぐ裏ではアムール川が流れ、中洲の向こうはもう中国だという。さすがに市内から中国側は見えないが、車で少し南下したカザケヴィチェヴォ村まで行ってみると、川岸から中国の沿岸を望むことができた。
国境警備隊の監視タワーがあるのが国境の街らしいが、さらによくみると川向こうに金属色を放つ奇妙なオブジェのようなものが認められた。漢字の「東」の形をしている。
この辺りはアムール川とウスリー川の合流地点であり、その部分が角のように東に突き出している。したがって、中国の最も東の地点ということでこのようなモニュメントが建てられたようだ。
他方、対岸のロシア側は至って地味である。カザケヴィチェヴォ村は極東に進出してきたコサックの砦に端を発するという村落で、あまり目立った産業がある様子はない。川岸にはロシアの国境を示す赤と緑の塚が立っており、ロシアの国章である双頭のワシが刻まれているが、それがなければただの寒村というところであろう。
村に通じる道には国境警備隊の検問所が設けられており、地元の住民か許可を得た人間(我々は現地総領事館の尽力により事前に許可を得ていた)しか通れないという。巨大な「東」のモニュメントが輝く中国側と比べると、いかにも寂しい雰囲気は否めなかった。
厳密に言えば、「東」のモニュメントがあるのは中国の本土ではなく、アムール川とウスリー川に挟まれた中州、大ウスリー島(中国名:黑瞎子《ヘイシャーズ島》に建てられている。
かつて中ソ国境紛争の舞台となり、2004年の中露国境協定によってその西部が中国に引き渡されたという歴史を持つ島だ。だが、橋を渡って島に上陸してみると、恐ろしく何もない。白茶けた土地が延々と続き、放棄された農場がところどころに目につくぐらいで、経済活動どころか人間の姿さえ見当たらない。
冷戦後の中露国境交渉でロシア側(特にハバロフスク市)があれほど固執した島だとは思われなかった。