報酬としての愛には意味がない
神経症的な人間関係のなかで生きてきた者のなかには、小さい頃から「ほめられる」ことの多かった人がいるかも知れない。
何か立派なことをやってほめられる。小学校の時成績がよくて「可愛がられる」、そんなことはあったかも知れない。
しかしそれらのことはみな報酬としての「愛」である。
小さい頃お使いにいってきたから頭をなでられた。何か親の気にいることをやったから「やさしく」された。そうして大人になり、また周囲に気にいられるようなことをしてほめられる。
だがこれらの人は、どんなにやさしくされ、頭をなでられ、抱かれても、親密さということを知らない。
親密さというのは、報酬としての愛、報酬としてのやさしさではない。何かがうまくいかなくても、それでもやさしくしてもらえる、というところに親密さは生まれる。
だからこそ自然で正常な人間関係のなかで成長してこられた人は、失敗したらどうしようという不安に支配されることがないのである。だからこそものごとに挑戦的になれるのである。
それに反して神経症的人間関係のなかで生きてきた者は、報酬としての愛、報酬としてのやさしさしか知らないから、失敗を回避しようと不安な緊張にさらされ、できれば自分が試される機会を避けようとするのである。
親密さを知っている者は、潜在的能力を顕在化することができる。そしてますます自分の力に自信をもつようになる。
小さい頃、時を得てやさしく子供をなでる親の手は、将来どれほど大きな力を子供から引き出すかわからない。
それにくらべて、うまくいかなかった時、鬼のような顔でにらみつけられたり、深い失望のため息を吐かれたりした子は、ものごとにおじけづいてしまう。
人生の途中で神経症的人間関係を断っていかなければ、その人は自己実現することなく人生を終るだろう。