「温かい無関心」が欲しい
恥ずかしがり屋の人には、自分は相手にとって望ましい存在ではないという基本的感情がある。何かを与えなければ、自分は相手にとって意味がないという感じ方になってしまっている。
自分は相手に好かれているという実感があって、その人といることに安心する。相手は自分を好きだという確信がなければ、その人といてリラックスできない。
相手は「自分と一緒にいて楽しいだろうな」と思えれば、人といることは居心地悪くない。恥ずかしがり屋の人にはその確信がない。また同時に、自分が相手を好きでなければリラックスできない。
ところが恥ずかしがり屋の人は、人が嫌い。だから人といてリラックスできない。自分が相手を嫌いだから、相手も自分を嫌いだと思う。自分が相手といて窮屈だから、相手も自分といて窮屈だろうと思う。
そこで恥ずかしがり屋の人は相手に歩み寄らない。そして恥ずかしがり屋の人は人といることが窮屈だから、人が自分に近づいてきてほしくない。
近づいてきてほしくないが、孤立とか孤独は困る。近づいてきてほしくないが、関心は持っていてもらいたい。無視されるのはイヤである。ことに仲間外れはイヤである。近づいてきてほしくないが、仲間と思っていてほしい。
欲しいのは「温かい無関心」。要するに「私は干渉されるのもイヤだけれども、無関心も不安だ」ということである。これこそは恥ずかしがり屋の人が、人との関係で求めているものである。
簡単に言えば「温かい無関心」とは「私を気楽にさせてくれ」ということである。「無責任な幼児期に戻してくれ」ということである。要するに「温かい無関心」を求める人は、「母なるもの」を求めている。
うつ病になるような人は母なるものを体験できないままに大人になり、その段階でもなおそれを求めているのだろう。幼児的願望が満たされていない。母なるものを体験していないのである。
他人といると居心地が悪い
「他人と一緒にいて居心地が悪い」のは、第一に相手が好きではないのに相手に好かれようとしているからである。人と一緒にいると気楽にできない第二の理由は、恥ずかしがり屋の人が、相手にほんとうの自分を隠しているからである。
自分は相手の期待に添う人間ではないと感じている。相手にとって意味のない人間であると感じている。そのうえで嫌われることを恐れている。何度も言うが、小さいころから嫌われて育ったのである。
しかし実はその人が嫌われたのではなく、周囲にいる人が人間嫌いの人たちだった。人間嫌いの人から、無理に可愛がられても、リラックスはできない。
他人と一緒にいて居心地が悪いのは、第三に自分が自分を信頼できないからである。ノイローゼの人は自分の心の内側に闇を持っている。それを隠しているから人と会うのはしんどい。だから人間嫌いになる。
恥ずかしがり屋の人は、異性といると居心地が悪い。恥ずかしがり屋の男性が女性といると居心地が悪いのは、男として自信がないからである。何を話していいかわからないから、会話を進められない。言葉のわからない外国人といるのも居心地が悪い。それはコミュニケーションできないからである。
第四の理由は、人といるときに自分が完全であることを自分に期待するから。他人が自分に完全であることを期待していると錯覚するからである。そう錯覚するから、第二の理由で述べたように実際の自分を隠す。
人は見栄があるから自分を隠す。見栄のある人は、「実際の自分」と違ったイメージを相手に植えつけようとしている。しかし実際には、ふつうの人は相手に完全であることを期待などしていない。
じつはこれも、自分が相手に完全であることを期待していることの反映なのである。自分が相手に理想の恋人であることを期待している。その願望を相手に外化して、相手が自分に理想の恋人であることを期待していると錯覚する。
そこで自分のなかの理想的でない部分を隠さないといけないと、勝手に思い込んでいるだけである。子育てに問題があると、世間の不評を買うと思っている。
しかしだれでも問題を抱えている。多くの人は「問題を抱えているのは自分だけ」と思い、それを隠そうとしている。ほかの人も問題を抱えているのに。
【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。