自分の人生に対して、いつまでも他人事のような人がいる。加藤諦三氏は、彼らには共通して幼少期に反抗期がなかったと語る。「よい子」が生まれる背景には何があるのだろうか。本稿では、幼少期から感情を表現できなかった「いい人」が次第に人生に対して無気力になっていく過程を説明した一説を紹介する。
※本稿は、加藤諦三著『人生の悲劇は「よい子」に始まる』(PHP文庫)より一部抜粋・編集したものです。
「マイナスの感情」を吐き出せないと...
神経症的な人は人に嫌われることを恐れているから、自分の感情をそのまま表現することができない。自分の感情をそのまま表現すると、取り返しのつかないことになるのではないかと不安なのである。怒りをそのまま表現すると、その人との関係が切れてしまうという不安である。
「自分の怨みや怒りを口に出してしまいたい一方、いわゆるマイナスの感情を表に出さない、良い、慎ましい女性として愛されたいとも望んでいるわけです」(ドゥローシス・H・A著、斎藤学訳『女性の不安』誠信書房)
このような人はどこか態度に確信を欠いている。おそらく優しい女性というイメージを大切にしているのであろうが、その代価は大きい。それは自信の喪失である。防衛的な性格の人は、ひとたびマイナスの感情を表に出すと、それですべてが終わりになるような恐怖と不安を持っている。
相手との関係が終わることを恐れて、あるいは相手と対立することが怖くて、マイナスの感情を表現しないで彼らは内にこもってしまう。しかし怒りの感情そのものが消えるわけではないし、恨みや敵意を忘れられるわけではない。
むしろそのような人の怒りや敵意、恨みの感情は、それをすぐに表現してしまう人よりもずっと根が深いものである。その感情はなかなか心の中で処理されないで、いつまでもくすぶり続ける。
愛されたい、好かれたい、認められたい、嫌われたくない、ということから、そのマイナスの感情は表現されないまま心の中を占領している。矛盾する二つの種類の感情が心の中で激突し続ける。
それがついにいきづまると、自殺であり、神経症であり、うつ病であり、家庭内暴力となって表われる。それらはもう本人にもどうにも処理できなくなってしまった姿である。
「よい子」が突然DVに走る理由
愛されたいという感情と攻撃性との葛藤の典型が、家庭内暴力である。家庭内暴力を起こす子供も、よくいわれるようによい子であったケースが多い。その一般的な心理過程はこうである。
まず親との関係で抑圧がある。その葛藤から不安になる。その不安に対する防衛として、手のかからない、親の言うことをよく聞く従順なよい子になる。よい子になることで親の注目を獲得し、安心しようとするのである。
しかし従順なよい子になろうと努めても、必要にして十分な親の承認が得られないこともある。するとどうなるか――サラリーマンの場合を考えてみればよい。十分に会社に忠誠を誇示することで、会社から保護を求めているサラリーマンがいるとする。
しかし、彼の熱意がいくら立派でも、それにふさわしい能力と会社への貢献ができないと、会社は自分が望んでいるほど認めてはくれない。会社への忠誠は自分を認めてもらうための行為であったのにその効果が上がらない。次に、彼は一転して会社の悪口を言いだすようになるのではないだろうか。
親の手のかからない子になったのも、言うことをよく聞く従順なよい子になったのも、みな親に認めてもらうためであった。だからこそ、暴力をふるいだす前にはよい子であったのである。しかし、よい子であるだけではもはや親の期待をかなえることができなくなった。
そこで不安に対する態度が変化したのである。それまで不安に対しては従順な態度を取って身を守っていたのだが、一転して攻撃的な態度を取るようになる。表面に表われた態度は変わっても、愛情を求めていることと、不安であるということは変わらない。ただ愛情を求める手段が変わったのである。
従順なよい子であった時にも、十分な愛情を得られなくて、心の底では親を責めていたに違いない。しかし、その親への非難は抑圧されていた。暴力をふるいだした時にも、従順であった時にも、同じようにその子は愛情飢餓感に苦しんでいたのである。同じように不安なのである。
暴力で母親を責め苛みながら、裏で不安から愛情を求める。しかしどんなに暴れても、不安はそれだけではなかなか解消しない。家庭内暴力の子供は、一方で愛情を激しく求めながら、他方で愛情を拒否している。自分に十分な理解を示さなかった母親を責めているのである。
つまり、家庭内暴力の少年は母親に暴力を振いながら、裏で母親の愛情を求めている。だから家庭内暴力はしつこいのである。いつまでもうじうじと母をなじるのは、裏で愛情を求めているからである。