一人を楽しめない大人の問題点
神経症者はすべての人に好かれようとする。それは心のどこかで保護を求めているからではなかろうか。自分の生きる道は自分で開くという気概があれば、それほど人に好かれようと無理する必要はない。神経症者が他人の好意にもたれかかって生きようとして、八方美人になる。それはちょうど、車がなければ生活しにくいアメリカのようなところで、自分で車を運転しないで人に乗せてもらってそこで生活するようなものである。
他人の好意に感謝するのはいい。他人の好意で何かするのもいい。しかし他人の好意によってしか何もできなくなるというのが問題なのである。神経症者のように他人の保護をあてにして生きるということは気持ちが自由ではない。
一人で林の中にいて風の音を楽しめない人がいる。一人で林の中を歩いて楽しめない人がいる。大人になって一人でいることを楽しめない人は、実は「そこに存在しない愛着人物」を求めているのである。清清しい空気、美しい緑、湖の上を越えていく小鳥の声、それらのものに接しながら気持ちは落ち着かない。
早く家に帰らなければと気持ちが焦る。では家に帰って何か急ぎの用事があるかといえば、そんなものはない。現実には急ぐ必要は全くない。それなのに早く帰らなければと気持ちが焦る。
いつも次の行動に移ることによって、今感じている不安を減少させようとしているのであろう。今していることがいつも不安なのである。今美しい夕日を見ている。それが美しいとは頭で分かっている。しかし実は何かに追い立てられている。何か他のことをしなければと焦っている。
小さな子供が母親の不在で不安になり泣き叫ぶ。その泣き叫びたいのを我慢して楽しく遊んでいるふりをしているところを想像してみると分かる。
本当は泣き叫ぶという愛着行動をとりたい。しかしそうではないふりをする。それでは落ち着いて現在の行動に集中できるわけがない。家に帰る急ぎの用事もないのに早く帰らなければと焦る人は、実はこんな状態なのではなかろうか。
つまりこんな状態の時、不安な子供なら愛着行動をとるところなのである。ところが大人はその愛着行動をとらないでいるから焦りがある。愛着行動をとろうとしながらとれない。
いつも焦っている人は「存在しない愛着人物」の後を追いかけようとしているようなものである。小さな子供なら母親の膝の上に抱かれることで愛着行動は終わる。
しかし一人でいることを楽しめない大人は、もともと存在しない愛着人物を求め後を追いかけているのだから、いつまでも後を追う愛着行動は終わらない。あるいは後を追うという愛着行動をいつも我慢しているといってもいい。だからいつも焦っている。つまりその人が本当にしたいことは愛着人物の後を追うことなのに、それを我慢して他のことをしているから焦るのである。
憎しみが生まれる心理過程とは?
もちろん愛着人物の後を追うという願望は無意識である。無意識の領域で愛着人物の後を追いたいと願い、意識は今していることにある。焦りはそこから生じる。
小さな子供は疲れていたり、苦痛の状態にある時「子どもは母親の姿が見えなくなるのをいやがるだけではなく、母親のひざの上にすわることや、抱かれることを切望する。子どもの願望がこれほど強い場合には、身体的接触によってのみ愛着行動が終結させられる」(前掲書、307頁)。つまり何をしていても落ち着かず、現在していることに集中できず焦っている人は、終着しない愛着行動の願望を抑圧している。
そして無理をしてそこにいると気持ちが落ち込んでくる。おそらくそんなに焦って次のことに移ろうとするのは、自分の内面の不安から眼をそらそうとしているのだし、気持ちが落ち込むことを避けようとしているのであろう。
もともと一人で何かをするほど心理的に安定も、成長もしていない。社会的に大人になってしまったから一人で何かをする機会ができてしまったというだけのことである。
一人でいることを楽しめない人は、元気な人を見ると勇気づけられるのではなく、逆に気持ちが落ち込む。誇らしげな人に接すると圧倒されてしまう。
そうしながら密かにその威勢のいい人に敵意を持つ。
弱い人が憎しみを持つというのはこのような心理過程である。
一人でいることを楽しめる人は他人の存在によってそんなに心が動揺するものではない。他人に自分の優越を認めさせようとしたり、他人より自分が劣っているといっていじけることもない。
【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。