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生き方

自分は最期に泣いて貰える? 医師が語る「死と向き合う」重要性

和田秀樹(精神科医)

2022年09月12日 公開

 

自分は最期に泣いてもらえる人間かを考える

歳をとってから、「いま生きているうちに有名になりたい」などと考えるよりも、死んだあとで「あの人はすてきな人だった」と評価されたり、「じつは偉い人だったんだ」と再認識されたりすることを意識するほうがすてきだ、と私は思います。

「死んでからどう思われるだろうか」ということを意識すると、人間はいいことをしようと思うようになります。少なくとも、あまり悪いことや恥ずかしいことはできなくなります。

死後に恥を残さないようにしよう、死んだあとにすてきな人だといわれるような行いをしようという意識を、昔の日本人はもっていたように思います。

とくに宗教的な背景がないのに、全国いたるところに、当時の大金持ちや大地主が寄付してできた橋や堰のようなものがあります。そして多くの場合、それらがつくられた由来が語り継がれています。死後の世界に強い思いをはせることは、現在の生を充実させる1つの方法でもあります。

木村元保さんという鉄工所の社長がいました。まだ映画を1本も撮ったことがなく、夢だけはいっぱいの小栗康平という青年の夢を聞き、4500万円を用意して映画をつくらせたのです。

小栗康平第1回監督作品「泥の河」は、その年の「キネマ旬報」ベストテン第1位に輝くなど、いまでも語り継がれる名作映画です。「よくそんな大金が出せますね」と周囲から聞かれて、木村さんは、「お金は残るかどうかわからないけど、映画は残るから」と答えたそうです。

残念ながら、木村さんは67歳で亡くなりましたが、一部の映画ファンには″鉄工所のオヤジ"として記憶に残っています。

私も日本にいるお金持ちの方を紹介されては、映画の出資をもちかけますが、99パーセント断られます。そんな大きな額ではないのですが、お金を出してくれた人の名前はずっと覚えています。

名前が残る映画はまだ残せていませんが、私のなかでその人への恩は一生残るように思います。その一方で、木村さんのようなお金持ちとの出会いがないかと、ずっと夢見ています。

死んだあとに自分自身がどうなるのか、どこに行くのかという意味での死後と、死んだあとに自分が周りからどう思われるかという意味での死後、そのどちらを意識するかは、人それぞれだと思います。ただ1つ不毛なのは、死ぬことをあまりにも不安に思うことです。

人生の最期を迎えるにあたって大事なのは、なるべく後悔の念を残さないようにすることです。「あのときお金をケチらずに、あそこに行っておけばよかった」などという後悔は、しないに越したことはありません。

人生の最終段階にある人からよく聞くのは、「死ぬまでに、楽しい思い出をもっと残しておきたかった」という声です。すでにお話ししたように、最期にお金がたくさん残っていてもあまり意味はありませんが、すてきな思い出がたくさん残っている人は幸せに旅立っていくように思います。

もう1つは、人に対していいこと、親切なことをしてきている人ほど、最期までみんなに慕われたり、別れを悲しんでもらえたりするということです。

私は道徳的な高齢者になれ、と言うつもりはありません。でも、高齢者を現実にたくさん見てきた実感として、いいことをするとそれが自分に返ってくるというのは事実だと思っています。

ただやみくもに死を恐れるのではなく、死から目をそらすのでもなく、真剣に死と向き合うのです。その時がきたら、自分は周りの人に泣いてもらえる人間なのだろうか、ということについては、いまから考えておいてもいいのではと思います。

 

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