どうせ死ぬのになぜ生きるのか?
仏教では、「生」「老」「病」「死」の4つの苦しみを「四苦」と呼んでいます。これはお釈迦様が出家して修行するきっかけとなった「四門出遊」という故事にならったもので、これこそが人間にとっての悩み・苦しみの4つの象徴とされています。
「四門出遊」とはこんなお話です。インドの小国の王子だった釈迦があるとき、お城の東門から出たところ、老人に会いました。
老人をみた釈迦は「人はやがて老いるのだ」ということを知ります。またあるとき、南門から出たところ病人に会いました。同じように釈迦は、「人はやがて病むのだ」ということを悟ります。次に西門から出たときに死体を見た釈迦は「人はやがて死ぬのだ」ということを知ることになります。
老い、病、死を知った釈迦は、最後に北門からお城を出て出家します。人は必ず死ぬ。そのことをどう受け入れて生きていくのか、というのは仏教においても、根源に据えられている問いである、ということがわかります。
「死」は、僕らが人生で得るあらゆるものを一瞬にして消し去ってしまいます。そしてそのことは、誰一人抗うことのできない宿命です。僕も、あなたも、あなたの家族も、友人も、あらゆる人は必ず死ぬ。そこにはひとつとして例外はありません。
考えれば考えるほど、これはとてつもなく受け入れがたい現実です。ものすごく努力をしてお金を稼いだ人も、どれだけ怠けて親のスネをかじった人も、死んだら同じです。
勇気を振り絞って大好きな人に愛情を伝えた人も、傷つくのを恐れて無為に過ごした人も、「やがて死ぬ」という1点においては変わらない。
どんな人生を送ったとしても死んだときにはすべてご破算になるのだとすれば、僕らが日々一生懸命生きる意味はなんでしょう?どうせ死ぬなら、一生懸命働いても、だらだらと怠けて、遊んで過ごしても同じではないでしょうか?
勇気を振り絞っても、臆病なまま生きても、同じことではないでしょうか?あらゆる喜びに、あらゆる悲しみに、あらゆる苦しみに意味がないとしたら。僕らが学び、働き、子供を産み、育てることの意味がないと したら......。
僕はこれこそが、僕らが1人の例外もなく心の奥底に抱えている「漠然とした不安」の源なのだと思います。「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という問いに答えられない限り、僕らは根本的なところで「生きることの意味」を見いだせない。
だからこそ僕らはいくらお金を儲けても、いくら恋人や家族に恵まれても、心の奥底にある「漠然とした不安」から逃れることができないのです。
目の前の具体的な問題をいくら解決しても悩みや不安から解き放たれない理由は、ここにあるのです。