自業自得――末期ガンの猟師へネットユーザーが投げつけた言葉【幡野広志】
2018年12月04日 公開 2018年12月04日 更新
僕たちは、命の上に成り立っている。
20代の半ば、僕が狩猟を始めたのは、生きることと死ぬことに興味があったからだ。
ちょうどそのころ「Nikon Juna21」を受賞した「海上遺跡」も、海の上に打ち棄てられた建物の姿を5年間かけて撮り続けた作品であり、言ってみれば建築物の死だ。
鉄砲との出合いは、撮影のときの集中力を高めるために始めた競技射撃からだ。
わりと向いていたらしく、「世界大会を目指したらどうか」と言われたが、すぐに狩猟に移行してしまった。競技そのものには、あまり興味がなかったのだろう。
興味は生きることと死ぬことだといっても、いきなり1人で狩猟を始めるというのは、突飛かもしれない。
狩猟家の講演会を聞きにいくとか、「動物をさばいて食べる会」の類に参加するとか、もっと平和的なやり方もあったかもしれない。詳しい人にガイドを頼み、グループで狩猟を学ぶことだってできた。
だが僕は、それでは自分の経験にならないと思った。
命を奪って食べるというのはどういうことなのか、じかに知りたかった。
誰かに殺させて食べるのではなく、自分で全部やったらどうなのか、感じたかった。
それがたぶん、他者の命の上に成り立っている自分の生を考えることだから。
息子が毎日のように食べる、ウインナーやシメジがどうやってテーブルに並んでいるのか早いうちから教えてあげたい。
命の経験、生きる実感
僕の最初の獲物はウサギだった。1人で山に通い始めて9日目までは何も獲れず、「どうせだめだろう」と思っていた10日目、いきなり飛び出してきた灰色のウサギ。
撃ったときの思いは、「いやあ、やっちゃったな」だ。
ウサギという身近なカワイイ動物を自分の手で殺したのだから、ショックだった。
獲れると思っていないから解体の道具も袋も持っておらず、手荷物を入れていたリュックで持ち帰るしかない。抱えると、死んだウサギの毛はやわらかくて、温かかった。
ところが動物というのは、死ぬと力が抜けて、ものすごく伸びるのだ。
長々と伸びてしまったウサギの体を無理やり詰め込み、家に帰ると、ウサギはリュックの形に固まっていた。冷凍マグロ並みの硬さ。死後硬直って、本当にかちんかちんなのだと感心した。
何もかもが初めてで、驚きだった。
1回獲れると、そのあとはぽんぽん獲れるようになっていった。どう動物に近づき、どこを狙ってどう撃てばいいのか、コツもつかめてきた。
動物は鉄砲で撃たれたとたん、ぱたんと倒れてサクっと死ぬのではない。叫び声をあげ、のたうちまわる。逆襲されることもある。
動物によっては1キロも足をひきずって逃げたりもする。それを追いかけていって再び撃つのだから、そうとうに残酷だ。ようやく仕留めても、映画みたいに死んだら目を閉じる動物はいない。
そうやって殺した動物にナイフを入れ、体をひらいたときの内臓と血の匂い。
触るとちくちくするくらい熱い内臓。
狩猟シーズンは秋冬だから、あふれてくる温かい血から湯気がたちのぼる。
興奮していた。
感覚が研ぎ澄まされ、内臓から出る湯気の粒子までよく見えた。
鉄砲で撃って動物が死ぬと、アドレナリンが分泌される。興奮し、雄叫びをあげる人も珍しくない。これはきっと、縄文人から変わらない人間の本能だろう。
命の上に成り立つ命が、命を奪った瞬間に高揚する。
これも「生きる実感」かもしれず、自分で経験しなければ、わからないことだった。