「パート社員は好きな日に出社し、働く時間も自由に決めてよい」「嫌な仕事はやってはいけない」「助け合いは禁止」。大阪で天然エビの加工・販売を行なっているパプアニューギニア海産は、どこもやっていない変わった方法で改革に成功している。
常識では考えられないルールづくりはどのようにして生まれたのか。働き方改革に一石を投じる同社代表取締役の武藤北斗氏に、具体的な取り組みとその背景にある考え方を語っていただいた。(取材・構成:時政和輝)
※本稿は『[実践]理念経営Labo』(2022 AUTUMN 10-12、Vol.3)「シン・働き方改革」を一部抜粋・編集したものです。
ストレスフリーな働き方
好きな日に出勤して、勤務時間も自由。休むときも連絡不要(むしろ禁止)。仕事は自分の好き嫌いで自由に選んでいい――。そんな職場があるとしたら、どのように思いますか。
従業員の立場では、「働きやすそうでいいな」と感じる人が多いでしょう。一方、マネジメントをする立場では、「全体の業務はうまく回るの?」と懐疑的に思われるかもしれません。「勤務時間も業務内容もきちんと定めて、しっかりと従事させるべきだ」と考えるのが普通です。
実は私も以前はそうでした。従業員の作業効率を高めるために、作業場に監視カメラを設置して各々の作業を管理していたほどですから。
しかし現在は、私たちのエビ加工工場で最初に挙げたような働き方をパート社員が実際に行なっています。各自の都合で出勤したい日に出勤し、工場が稼働する8時半から17時の間でその日の勤務時間を自由に決めてやりたい仕事をするという「フリースケジュール」です。
出勤するかどうかの連絡を禁止にしているのは、一切気兼ねなく休んでもらうためです。パート社員は子育て中の母親が多く、お子さんが熱を出して急に休んだり、学校行事などでイレギュラーに休むケースがあります。
そんなときは休みの連絡をすること自体がストレスとなり、他のパート社員にも余計な気を遣います。ですから、すべて連絡なしで休んでいいことに。それも、徹底するために「連絡禁止」としています。
このように出勤を自由にすると、従業員がその日に何人出社するかわからない、それどころか誰も来ないことさえあるのではと疑念を持たれるかもしれません。しかし、「フリースケジュール」を始めてからの9年間で誰も出社しなかった日は、たった1日だけです。
コロナ禍の緊急事態の期間でも、特に心配はありませんでした。家族が在宅勤務になったため、かえって出勤が増えた人もいるぐらいです。
弊社のパート社員は現在21名で、全員時給制で働いています。それぞれが目標とする収入を得るために働きに来ているわけですから、全体の出勤時間はある程度決まってきます。
もちろん、日によって作業人数の偏りは出ますが、それはその日の作業量を調整すればよいだけです。どうしても作業人数が必要なときは、私を含めて4名いる社員がその作業をして、滞らないようにします。
また、仕事内容を選べる点についても、それぞれ好き嫌いが異なっていて、全体での偏りはありません。もし、誰もやりたくない作業が出てくれば、平等に分担することも考えています。ですから、この働き方はうまく機能して、これまで欠品したことは一度もありません。
経営観を変えた2つの転機
最近、弊社のこうした取り組みがいろいろなところで話題となり、どうして始めたのかということをよく聞かれます。世間の目には思い切った施策に映り、その導入にあたってはさぞ大きな決断があったのではないかと思われるのでしょう。
背景としては、2つの大きな転機が影響していると思います。現在の工場は大阪府摂津市にありますが、2011年3月11日までは宮城県石巻市にありました。
そう、東日本大震災の津波で工場が丸ごと流されてしまったのです。さらに福島第一原発の事故によって避難生活を余儀なくされ、当時経営を担っていた父や家族と「このまま会社をたたんでしまおうか」という話にもなりました。
そんな私たちの窮状を知った取引先の方が救いの手を差し伸べてくださり、大阪で再建を目指すことができる状況になりました。ただし、宮城で再建できない以上、地元で働いてくれていた従業員を解雇せざるをえません。
その決断を下すことに悩みに悩んだ中で、人が働き、生きることの意味を嫌というほど考えました。これが最初の転機で、当時の経験が今の私の経営観の土台を形づくっています。
大阪での再建は私と父と、そして石巻から一緒に来てくれた若手社員の3人で始まりました。2カ月後には新しいパート社員が集まり、工場を稼働することができるようになったので、一緒について来てくれたその社員を工場長に任命しました。
2つ目の転機はその2年後に訪れました。ある日突然、工場長が辞めると言ってきたのです。私は急遽、工場長をかけ持つことになり、まずパート社員が何を思っているのか、一人ひとりと面談することにしました。
すると、私の知らないところで、深刻な問題が起こっていることがわかりました。工場で働くパート社員たちの間に派閥ができて人間関係が複雑にこじれ、職場がギスギスした最悪な状態になっていたのです。
経営者でありながら私はまったくフォローもせず、信頼関係のない荒んだ現場を工場長一人に任せ、その責任を背負わせてしまっていました。不退転の覚悟で再出発を決意したにもかかわらず、従業員に辛い思いをさせてしまった痛恨事でした。