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[日本人の謎] なぜ、ことばを省略したがるのか?



2012年11月30日 公開

大森亮尚 (古代民族研究所代表)

『知っているようで知らない日本人の謎20』より》

「さようなら」に別れの意味はない

 「さようなら」、略して「さよなら」は、今や世界中に広く行き渡るようになった日本語です。

 ペルーの世界遺産マチュピチュの麓には「サヨナラ少年」がいて、日本人のみならず、世界中の観光客に、「サヨナラ、サヨナラ!」と叫びながら山から駈け下りて来ることで知られています。どうして彼が「グッバイ」や「アディオス」ではなく「サヨナラ」を選んだか、その理由は残念ながら聞き忘れてしまいました。

 「さようなら」は日本人の美しい別れの挨拶のことばです。「さようなら」を別れの時に遣うのはなぜか?「さようなら」ということばにはいったいどういう意味があるのか?

 なにをいまさら当たり前のこと、とお叱りを受けそうですが、非難を覚悟の上であえて「さようなら」を取り上げてみたいと思います。

 結論から言えば、「さようなら」ということば自体には本来、別れの意味は含まれていません。

 もともと、「さようならば」という接続詞なのです。前から続いていた話に一区切りをつけ、「それならば」「しからば」「そういうことでしたら」という結論へいたるための導入の接続詞です。すなわち、「さようなら」だけでは別れの意味はなく、「さようならば」といったん話を打ち切って、「これにて失礼いたします」と挨拶語を述べるのが本来の正しい別れの挨拶のことばなのです。

 最近ほとんど遣われなくなっていますが、「さらば」も同じです。「それならば」「それでは」という意味の接続詞です。「さらば、いかがしたらよかろうか」などと昔は遣っていました。「さようなら」を遣わなくて、「それでは」とか「それじゃあ」、あるいはもっと略して「では」と言って別れる人もいますが、それも同じ接続詞から来たことばなのです。

 「さらば」は卒業式などでよく合唱した『仰げば尊し』(明治17年〈1884年〉)に「今こそわかれめ いざさらば」と末尾で「さらば」が遣われています。友との別れが「さらば」ということばで締めくくられる心地よさを味わったものです。「さらば、友よ」――いい響きでしょう。

(中略)

ことばを省略したがる日本人

 こうして見てきますと「さようなら」という別れの挨拶語も元は接続詞で、別れの意味を含まず、当然、その後に続くはずの「これで失礼します」という別れの挨拶語が省略されているのです。

 日本語には後に続く肝心なことばを省略してしまう癖があります。たとえば関西の商店で買い物をすると、店の人から「おおきに」と感謝されます。この「おおきに」は副詞で、「ありがとう」につけて強調して「おおきにありがとう」ということばになるはずだったのに、いつの間にか「ありがとう」という肝心のことばが省略され、「おおきに」だけになりました。

 英語では感謝のことば「サンキュー」を強めると「ベリー・サンキュー」となりますが、それを「ベリー」だけで切ってしまったようなものです。「ベリー」という副詞だけではなんの意味もありません。論理的には間違いなのですが、そうした省略が日本語に多く見られるのです。
   

  日常の挨拶語も同じです。「こんにちは」や「こんばんは」も、元々「今日は、よいお日柄で」とか「今晩は、よき穏やかな晩です」という、後に続くはずの挨拶語が略されているのです。

 外来語でも何でも日本人はすぐに省略して遣います。「コンビニエンス・ストア」は「コンビニ」、「パーソナルコンピュータ」は「パソコン」か「PC」、木村拓哉さんは「キムタク」です。数え上げたらきりがありません。長いフレーズでも3字か4字に省略されてしまうのです。

 主語が省略されたり、肝心なことばが略されたり、日本語は言語学的に見ても欠陥だらけで未成熟言語のように思われるかもしれません。その点、英語は主語・述語・目的語がはっきりしていて、主張すべきことを論理的によどみなく展開できる構造になっています。日本人が外交などでいつも自己主張ができないと言われるのも、こうした言語上の欠陥があるからだと指摘する人もいます。

 第二次世界大戦後、日本が戦争に敗れたのは文化の差であり、言語に欠陥があったのだから、これからは日本の公用語をフランス語に切り替えたらどうか、と暴論を吐いたある著名な作家(志賀直哉)までいました。もし彼の意見が採用されていたら、今頃、わたしたちの言語生活はどうなっていたでしょうか。学校教育は英語かフランス語で、公的な発言などは下手な外国語で話さなければならず、唯一、仲間内の時だけ密かに日本語で愚痴を言うような国民になっていたかもしれません。

 それでも、憧れの英語やフランス語を自在に駆使できるのだったらその方がよかった、と思う人もいるかもしれませんね。

 東南アジアのある国の学生がアメリカに留学し、偶然、祖国の学生と出会えたので、久々に母国語を話せて心安らぐ時間を過ごし、その後、お互いに勉強している専門領域の話題になると母国語ではまったく語れず、泣きながら英語で話し合ったという気の毒な話を聞いたことがあります。

 早稲田大学の構内には有名な大隈重信像のほかに小野梓という人の銅像があります。この人がなにをしたかといえば、大隈と協力して東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立しました。だから銅像があるのでしょう。しかし彼の功績は、外国の教科書を使って外国語で教えるのでは学問の独立はないと批判し、日本語による講義を提唱したことにあると思います。そのためには、外国の教科書や最新の文献は即、邦訳して日本語で講義する、というスタイルを確立しなければなりません。江戸時代から、オランダ版の『解体新書』を若狭小浜藩をスポンサーにして藩医・杉田玄白や中川淳庵らが日本語に翻訳する、という知的好奇心にあふれる日本人が市井に少なからずいたとはいえ、国家が制度とするにはそれだけの覚悟がいります。

 しかし、日本人には覚悟や技術(翻訳力)に先立って熱意と知的好奇心がありました。その結果、世界でも希有なほど、最新の外国文献でも日本語で読めてしまう、という翻訳文化を確立しました。アジアの国々で高等教育などすべての講義を母国語でまかなえる国がどれほどあるか、考えてみてもそれがわかります。一方、日本人が英語を苦手にするのもそのせいかもしれません。

 自国語でほぼすべてがまかなえる国であるありがたさ。ことばは文化であり、ことばは民族の誇りなのだ、ということを日本人はついつい忘れがちです。

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