なぜポルトガルは「もっと」を求めない? 効率社会の日本を離れて気づいた“忘れていた価値観”
2026年06月30日 公開
効率や生産性を追い求める現代。そんな時代だからこそ、「私たち日本人は、人間らしさを忘れているのではないか?」と、ポルトガルと日本を拠点に活動するフォトジャーナリストの乾祐綺さんはいいます。
ポルトガルで暮らすことで、忘れていた"豊かさ"に気づいたと語る、乾さん。本稿では、ポルトガル人が大切にしている考え方について紹介します。
※本稿は、乾祐綺著『西の果てで見つけた ポルトガル人のほどよい生きかた』(クロスメディア・パブリッシング)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
急がない、働きすぎない、でもちゃんと生きている
たとえば時間に対する感覚。バスはよく遅れるし、カフェの店員は誰も急がない。でも、不思議とみんなイライラする様子はない。「人間だから」「しょうがない」と、笑って済ませているような空気感がある。ゆるやかな赦しの文化。敬虔なカトリックの国であることも大きく関係してはいるのだろうが、相手の都合や流れを尊重する感覚が、社会全体に根づいている。いや、大航海時代当時のまま、今も残っているのかも?
日本が分単位、秒単位で動く国なら、ポルトガルは"人の都合""風まかせ"で動く国なのかもしれない。けれど、どちらが人間らしいかと問われれば、答えに迷う。どちらも正しい。でも、今の日本へのヒントになりそうなものが、ここにはあるのではないかと直感が言う。
もうひとつは働くということへの姿勢。ポルトガルの人々は、本当にまじめで、ちゃんと働く。けれど、働きすぎない。少し余談だが、友人の経営者なんかは、ポルトガル人を雇わない!と決めている人が幾人かいる。理由は「すぐチル(Chill /くつろぐ)しちゃうから」だそう。でも、それってすごく人間らしくてよくないか?
この国の人は仕事が終われば家族や友人と集い、週末はきちんと休む。海に行ったり、公園で友人の子どもの誕生パーティをみんなでしたり。仕事と生活を分けることが、社会の当たり前として成り立っている。誰も「自分を失ってまで稼ごう」とは思っていないのではないかと感じさせる。そのゆるやかな線引きが、社会全体の健やかさを保っているように見える。
日本のようにがんばり続けることを美徳とせず、休むことを罪とも思わない。そうやって日常に"遊び"を持たせる。そこに、500年前から続く、この国の人間中心の世界観が見える。
【制度よりも、人が社会をつくる】
なによりも印象的なのが関係性の濃さだ。近所づきあい、家族、友人、みんながどこかで繋がっている。カフェの店主やスタッフは客の顔を覚えているし、スーパーではレジ係と客が、会計の列が連なっていようが関係なく、世間話をはじめる。
赤の他人同士だって、ぺちゃくちゃと喋り合う。どこか、国全体が大きな家族のような感じがする。そしてそれがすごく心地いい。社会の安心感は、制度ではなく人との関係で成り立っているんだ、そういう仮説が立った。
完璧の代わりに、なにを置き忘れたのか
ふと、日本のことを考える。僕らはいつのまにか、完璧を目指すあまり、人間らしさを後回しにしていないだろうか。効率や生産性を上げることは得意になった。けれど、つかれを癒す時間、立ち止まる余白、語り合う場を、どこかに置き忘れてしまったのかも。ワークライフバランスや、ウェルビーイング、サードプレイスといったワードが、声こわだか高に叫ばれている現状こそ、それを表しているだろう。
一方、ポルトガルの人たちはどうだろう。彼らは間違うことを恐れない。役所の窓口なんかでも、毎回担当者によって話が異なることもしばしば。会話の途中で沈黙しても、誰も気まずくならない。「そのままでいい」と受け止める包容力がある。きっとそれは、長い歴史の中で、多くの喪失を経験してきたからなのかもしれない。
未知の冒険を続けた大航海時代、移民としてブラジルをはじめ未開の地へと渡った近世。ポルトガルに残った人たちは、待つ、悲しみ、という感覚をはるかに超えた境地に至っただろう。独裁政権も経験し、その後には革命も。経済破綻間際になったことも大きいだろう。でも、大きな喪失を乗り越えるたびに、人は優しくなった。
この国の人たちを見ていると、生きるということが、もっとシンプルでいいのだと思えてくる。食べる、働く、笑う、話す。それだけで、1日は十分に満ちている。だから、ここでは「もっと」があまり聞こえてこない。
余談だが、昔、ピカソに「20世紀最後の巨匠」と称えられたフランスの画家・バルテュスの妻であり、自身も画家である節子さんが、気候変動に関するイベントでご一緒した際に教えてくれた言葉が、今も忘れられない。
「いい暮らしの敵ってなんだと思う?"もっと"いい暮らしよ」
現状に満足せず、「もっと」を求めることを認めてしまう社会は、大事なものをなくしてしまうのでは?ポルトガルに来て、その言葉の意味を改めて考える。もっといい生活を、よりよい未来を――と願うのではなく、ポルトガル人は今をよく味わうことに心を向けているのではないのだろうか。言い換えれば、これって究極のマインドフルネスでは。
500年前、ポルトガル人が日本に未知の世界を見たように、今度は僕たち日本人が、この国に"忘れていた世界"を見つけようとしているのではないか。そして、その発見は、どこか懐かしい感じがする。
急がなくても、比べなくても、ちゃんと生きていける。世界の西の果てには、そんなあたりまえが、ちゃんと残っている。








