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生き方

『国家の品格』の原点。藤原正彦が宮沢賢治『永訣の朝』に誓った覚悟

藤原正彦(数学者)

2026年06月25日 公開

『国家の品格』の原点。藤原正彦が宮沢賢治『永訣の朝』に誓った覚悟

父・新田次郎氏が直木賞を受賞したことで、「人間のクズになる」と危機感を抱いた10代の藤原正彦氏。彼は、その反動によって多くの小説や詩を読んだ。その中で出合った宮沢賢治の詩に感極まり、「あること」を心に誓う。のちにベストセラー『国家の品格』の原点となるその決意とは?

※本稿は、藤原正彦著『静かな夜はあの歌と 一曲一曲に刻まれた、六十二篇の回想録』(PHP文庫)から一部抜粋・編集したものです。

 

幸せな状況に溺れたら、大切なものを失ってしまう

私が小学6年生の時に父は直木賞を受賞し作家として一人前となった。家計は少しずつ改善されていった。高校時代にはお金に困らない生活を送れるようになった。10代の私は、そこに危機感を抱いたのである。自分は今、幸せだが、この状況に溺れてしまっていたら、人間にとって最も大切な惻隠(そくいん)を失ってしまう。人間のクズとなる。そう思った。

裕福になった私は、その反動のごとく「弱者」や「不幸」を追い求めた。小林多喜二の『蟹工船』などのプロレタリア文学や、哀しみを描いた詩や小説を手当たり次第に読んだ。

そんな頃に出会ったのが、宮沢賢治の詩『永訣の朝』である。賢治には2歳年下のトシという妹がいた。日本女子大を出てから花巻高女で教えていたトシと賢治とは、お互いを深く理解し精神的に支えあう兄妹だった。ところがトシは結核に罹り、24歳で死の床についてしまう。『永訣の朝』は死を目前にした妹への絶唱である。

〈Ora Orade Shitori egumo〉

おらは一人で死んでいく─妹の言葉を、ここだけローマ字にしたのは、哀しみが大きすぎて日本語では記せなかったのだろう。

〈あめゆじゆとてちてけんじや〉

妹トシは、〈はげしいはげしい熱やあへぎのあひだ〉から「雨雪(みぞれ)を取ってきてちょうだい」と賢治に頼む。賢治は、幼い頃から自分や妹が使ってきた〈欠けた茶椀〉を手に、〈てつぱうだまのやうに〉庭へ飛び出し、〈松のえだ〉のみぞれを掬う。
ここには妹の優しさが隠れている。死に行く自分に、兄は「自分が何もしてやれなかった」と悔いるだろう。そう思わせないために、妹は兄に〈あめゆじゆ〉をねだったのである。
賢治にもそれが分かっている。

【永訣の朝】(宮沢賢治)
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
(あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜(じゅんさい)のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
(あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを......
......ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

 

『国家の品格』で罵詈雑言を浴びたが...

〈うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる〉

今度生まれてくる時は、こんなに自分のことばかりで苦しむのでなく、他人のために苦しむ人間になりたい。トシの最期の言葉だ。何と美しい人だろう。

〈ありがたうわたくしのけなげないもうとよ/わたくしもまつすぐにすすんでいくから〉

まっすぐ─この素朴な言葉に、10代の私は感極まった。
24歳の若さで逝くトシのために、賢治は「人生をまっすぐに進む」と誓ったのだ。

この言葉は、私の心の芯の芯に響いた。自分もこれから、どんなことがあってもまっすぐに進もう。どんなに損を被ったとしても、周囲の人々から孤立することになろうと、曲がったことはすまい。正しいと信ずる道をまっすぐに進もう。私もトシに誓ったのだ。

『国家の品格』で民主主義の本質的欠陥を指摘し、論理より情緒、自由平等よりも惻隠の情、と断言したことで、多くの人から罵詈雑言を浴び、英訳を読んだインド人の友人からは「不愉快な本だ」と絶交された。
こんな時は『永訣の朝』を思い起こした。まっすぐに進むことをこの詩は教えてくれ、トシが力強く支えてくれた。

プロフィール

藤原正彦(ふじわら・まさひこ)

数学者

お茶の水女子大学名誉教授・数学者。1943(昭和18)年、旧満州・新京生まれ。東京大学理学部数学科大学院修士課程修了。理学博士(東京大学)。78年、数学者の視点から眺めた清新な留学記『若き数学者のアメリカ』(新潮社)で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞、ユーモアと知性に根ざした独自の随筆スタイルを確立する。2025年、菊池寛賞を受賞。新田次郎と藤原ていの次男。著書にベストセラー『国家の品格』『国家と教養』(以上、新潮新書)、『スマホより読書』(PHP文庫)など。

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