仕事に学校に家庭に...昨今では様々なシーンで人付き合いを求められるようになった。中には、いい人でいようと仮面をかぶり、自分らしさがわからなくなってしまったと考える人もいるのではないだろうか。
特に「立場が偉い人ほど「ねばならない」という意識にとらわれている人が多い」と話すのは、建功寺住職の桝野俊明さん。
立場や肩書、よけいな考えにとらわれず、ありのままの姿で生きるための方法をきいた。
※本稿は、枡野俊明著『手放すほど、豊かになる』(PHP文庫)を一部抜粋・編集したものです。
ありのままの姿で生きる
禅寺では、お寺によっては、一般人を招いて坐禅会を開きます。
研修として、社員に坐禅を取り組ませる会社もあります。
私も本山修行時代に坐禅会の指導役を承る機会もありましたが、以前面白い経験をしました。
ある大手企業の管理職を対象にした坐禅会でした。
いつも大勢の部下に囲まれている人たちですから、さすがに威厳があり、威風堂々としています。しかし私たち禅僧から見れば、どこか「無理をしている感じ」がします。
立場が偉い人ほど、「ねばならない」という意識にとらわれている人が多いのですね。
「部長だから」
「取締役だから」
「社長だから」
さて坐禅会が始まります。
禅では、当然ですが、自分のことはすべて自分でしなければなりません。
坐禅では坐蒲(坐禅用の蒲団)を腰にあて坐わりますが、自分が使う坐蒲は自分で持ち運んでこなければなりません。
しかしふだんは「部長、座布団をどうぞ」と、部下が差し出すところへ、自分はただ坐るだけ、ということにすっかり慣れ親しんだ人たちです。
もしかしたら心の内に、自分でもってくればいいと考えていても、「坐蒲をみずから用意するなんて、部長のする行いではない。部長たる者、坐蒲は部下にもってこさせなければならない」といった気持ちがあるのかもしれません。
ですから中には、こちらに「坐蒲をもってきてもらえませんか」といってくる人さえいます。
もちろん「喝!」と叱るわけです。
また、ふだんは職場で部下たちを叱りつけている人たちが、坐禅では警策で容赦なく右肩を叩かれます。
お偉い方々は、ある種のカルチャーショックのような強い衝撃であるようですが、しかし面白いものです。
坐禅会が終わると、当初「どこかで無理をしている」といった感じがすっかり洗い流されて、「部長としての顔」から「ひとりの人間としての素顔」に戻っているのです。
ご本人にも、じつは心のどこかで、「ねばならない」という意識が心の重荷となっていたのではないかと思います。
その重荷を、坐禅会をきっかけにして手放せます。
お偉い方々に失礼になるかもしれませんが、何か赤ちゃんのようなほがらかな、のびのびとした表情になっているのです。
「花は無心に蝶を招く」
良寛さんの言葉です。
部長だから、重役だから……と、肩肘張ったところがありません。
よけいな考えにとらわれずに無心でいる。
ありのままの姿で生きている。
そうであっても、花が蝶を招くように、周りの人たちの信望を集めていく。
もっとも美しい、人の生きる姿であろうと思います。
【枡野俊明(ますの・しゅんみょう)】
曹洞宗徳雄山建功寺住職、庭園デザイナー、多摩美術大学名誉教授
1953年神奈川県生まれ。大学卒業後、大本山總持寺で修行。「禅の庭」の創作活動により、国内外から高い評価を得る。芸術選奨文部大臣新人賞を庭園デザイナーとして初受賞。ドイツ連邦共和国功労勲章功労十字小綬章を受章。2006年には『ニューズウィーク』日本版にて、「世界が尊敬する日本人100人」に選出される。庭園デザイナーとしての主な作品に、カナダ大使館庭園、セルリアンタワー東急ホテル日本庭園など。