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松平容保・失敗の研究~京都守護職という選択

瀧澤中(作家/政治史研究家)

2015年02月13日 公開 2024年05月28日 更新

役職を受けた以上やるべきことは

筆者は、マキャベリの『君主論』は1つの教訓として読むには面白いが、これを皆が真似たら世の中が成り立たない、という立場に立つ。

「苦しい状況に自ら進んで入っていくな」「悪いことをしようが、見て見ぬ振りをしても、自分の国さえ安泰ならそれでいい」

なるほど、その国(藩)にとっては最良の選択かもしれないが、誰かがその役割を負わなければならず、誰かが「貧乏くじ」を引かなければならないとしたら、その「誰か」は、できるだけ有能で人間的にも信頼できる人物であってほしい。

歴史の結果から見れば、北陸の大藩である前田家をはじめ、政争の渦中に入ることをしなかった大名たちのほとんどが処罰を免れ、逆に会津藩はその民を含めて、明治維新後ですら辛酸を舐めることになった。

この部分だけを取り出せば、容保の決断はいかにも不用意である。

しかし、失敗すればすぐに辞職していた幕末の幕府役人が多い中、京都守護職・松平容保は6年の間その地位にあり、京の治安維持と朝幕間の調整に誠実に対応したことは疑いの余地がない。

もし、中途半端な治安維持しかできない守護職なら、京の政界は殺戮が繰り返され、単なる権力争いの場と化したであろう。権力を握った者を殺せば方針が変えられることを、攘夷派の人間は井伊直弼暗殺で経験しているからである。そうなれば、外国が日本に本格介入する隙を与えていたに違いない。

であるからこそ、のちに憎悪の対象になるほど取り締まりを強化した松平容保の方針に誤りはなかった。

そして、そういう貧乏くじを引いてくれたのが松平容保であったことは、日本全体から見れば、幕末の1つの幸運であったとさえ言える。

ただしかし。

容保と会津藩にとってあまりに過酷な言い方かもしれないが、それでも容保には京都守護職就任にあたって、若干欠けていた点があったのではないかと考える。

役職に就く意味は、出世するとかお金をたくさんもらえるとか、社会的な評価が上がるとか、そんな皮相なものではない。

役職は、ある仕事を遂行するのに必要な権限を与えられる、という意味である。

役職が上がるのは、こなすべき仕事が大きく深くなるに伴って、権限が拡大することを意味する。

つまり、役職には責任が伴う。

責任を負った以上、役職者がすべきことは、「どんな仕事をどうこなすか」という目標の設置である。
 

目標を達成する見通しがないのならば役職に就くな

通常、役職者には従来から与えられているルーチンーワークと、新たな使命がある。

京都守護職の場合、すでに設置されている京都所司代や京都町奉行では多発するテロや朝幕間の調整に対応しきれないことから、新設されたポストであった。

ということは、ルーチンを含めて新たに自らが仕事をつくり出していかなければならない。

これは、容易なことではない。

仕事は、内容と人脈を把握してはじめて実働できるもので、そういう意味では、松平容保は京都政界に直接知っている人間がおらず、当初は苦労の連続であった。

新たな使命は何か。

幕府から命じられたのは、京の治安維持と京における幕府権力の復活である。

もし、松平容保がただの目付や奉行であれば、事態が起きるたびに対応していればいい。しかし、京都守護職にはそれ以上の期待があった。

幕府の本音で言えば、衰えてきた幕府権力を強化するために朝廷を再び操縦できるようにしたい。そして、長州や薩摩など外様大名が京で力を得ることを阻止したいのである。

ここで松平容保に問われるべきことは、はたして容保に目標達成の見通しがあったかどうか、という点である。

役職者は、目標を設置しそれに向かって組織を動かす。目標を達成する見通しがないのならば、役職に就くべきではない。なぜなら、指導者が権力を握って、それを政策目標達成に使わないとすれば、あとは権力を維持するために力が向けられるからである。

もちろん、上から命ぜられて役職に就かざるを得ないことは多い。

目標達成の見通しがなくても役職に就かねばならない場合である。

たとえば、玉砕確実な島の司令官に任命されたとする。

勝利は初めから望めない。が、目標を「少しでもここで敵を食い止め、決戦のための時間稼ぎをする」ということにすれば、方策はある。大東亜戦争での硫黄島守備隊を指揮した栗林忠道中将は、その典型である。

しかしもし、勝つか負けるかわからない、敵が多いか少ないかわからない、味方が誰になるのかわからない、そんな中で指導的立場に任命された場合の目標設定はどうすべきか。

まず勝つことを前提に、味方を増やし敵を減らすべきである。

松平容保が京都守護職に就任した時点で幕府の力は衰えていたが、幕府は鳥羽伏見の戦いまで間違いなく、日本最大・最強の政治・軍事組織であった。であるならば、その幕府最大の出先機関として、徹底した攘夷派の弾圧とその根幹である攘夷諸藩の壊滅が必要であった。

筆者は、攘夷の是非、また、攘夷諸藩の良し悪しを言っているのではない。松平容保の立場の場合、政治的に必要な措置は何かを考えている。

容保は、攘夷派に対する弾圧は徹底していた。しかし、攘夷テロの大本である長州藩を攻撃することはできなかった。

容保はその立場と発言力を使って、長州藩に対する早期の攻勢を幕府に建言し、実現すべきであった(長州征伐はその一環であり、第一次長州征討には軍事総裁として参加するが、実戦は行われなかった)。

つまり、容保は権限を拡大するよう政治的に運動し、拡大した権限を行使して、目標を達成すべきであった。

※本記事は、PHP文庫、滝澤中著『「幕末大名」失敗の研究』より一部を抜粋編集したものです。

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