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仕事

数字より売場を見よ、失敗体験から学べ

鈴木喬(エステー会長)

2015年06月10日 公開 2023年01月23日 更新

《隔月刊誌『PHP松下幸之助塾』[特集:カンを磨く]より》

 

印象深いCMでおなじみの消臭芳香剤「消臭力〈りき〉」「消臭ポット」、脱臭剤「脱臭炭」などの大ヒット商品を生み出したエステー。当時、社長ながらみずからチーフ・イノベーターを務め、開発の陣頭指揮をとった鈴木喬氏は、「日本の空気までもかえたい」という心意気で経営にあたり、行き詰まっていた同社をグローバルなニッチ市場におけるトップメーカーに甦らせた。常識にとらわれない発想力と大胆な行動力で「世にない商品」を生み出してきた鈴木氏は、トップに必要な資質の一つとして「カン」を重視するが、はたしてそれはどのようにして磨かれ、いかなる局面で発揮されてきたのか。名物経営者の「カン」の正体に迫る。

<取材・構成:岡崎久美/写真撮影:長谷川博一>

 

「太陽が西から昇る」経営方針の大転換を断行

 「人間、大事なのは運と勘と度胸だ」という私の人生訓は、エステーに入社する前、日本生命に勤めていた時代に培われました。売れて大きな儲けになるか、失敗してゼロになるかは紙一重の運だということ。漫然と客先に通っていたってダメで、モノになりそうかどうかを早めに見極めるカンがものをいうこと。相手の会社のトップと渡り合える度胸が必要であること。いずれも企業保険を売る営業マンとして働く中で学んだことです。

 50歳を過ぎてエステーに入社してからは、米国の子会社の社長などを務め、平成10(1998)年、63歳で、バブル崩壊で経営基盤の悪化したエステーの社長になります。当時のエステーの株価は360円、ピーク時の20分の1です。バブルがはじけて株価が下がったといっても、20分の1になった会社はそうないでしょう。

 社長就任後は、それまでのやり方をひっくり返す大転換を断行しますが、当時は経営ビジョンのような格好いいものがあったわけではありません。頭にあったのは、「長期的な展望どころじゃない。このままでは会社のあすがない」という、切羽詰まった危機感でした。「残すべきものは残しながら改革する」などとよく言いますが、そんな普通のことをやっていたら、うちはつぶれる。徹底的に、ドラスティックにやるしかないと思って、「今までやっていたことは全部間違い。ガラガラポンですべて変える。これからは太陽が西から昇ると思え」とぶち上げたわけです。

抵抗は大きかったですよ。バブル崩壊後8年近くたっていたけれど、会社はまだバブルの夢から覚めていませんでした。社長が何か言っているけれど、適当にやり過ごしておけば、またいい時代が来る……周囲がそう思っているのが分かりました。

 人は変化を嫌うものだと、当時は思い知らされたものです。ましてや、エステーはバブル期までが順調すぎました。一部上場を果たし、「高田馬場のソニー」などと持ち上げられて、いい気分になっていた。成功体験が多すぎると、方向転換ができないんです。私が大ナタを振るえたのは、よそから来た人間だったからでしょう。

 逆風の中、社員の理解を得るとっかかりとして役立ったのは、保険会社時代に培った営業力でした。保険という商品は、営業して売り込まなければ利益はゼロ。同じ営業でも、黙っていても注文が来るメーカーの営業マンとは、身についている姿勢や心構えが違います。相手の懐に体当たりで飛び込む営業で、うちの営業が攻めあぐねていた手ごわいお客様から注文をとってみせると、営業部門の人間の私を見る目が変わってきました。

 営業部は会社の組織の中でも、社内外への影響力が大きいところです。営業にバカにされる社長は失敗します。経営者としてやっていくには、まず営業部隊の心を掴むことが大事ではないかと思います。

 

860種から280種へ商品アイテム数を大幅削減

 社長になってから、全国に5つあった工場を3つに減らしました。それから商品アイテム数の削減と、在庫減らしです。当時は製品を出荷して売上として計上し、実際は卸の倉庫に押し込んでおく、いわゆる「押し込み販売」が横行していました。

 倉庫に溜まったデッドストックは経営を圧迫します。つぶれる会社のお決まりのパターンです。「押し込み販売をやめろ!在庫は捨てろ!」と指示しましたが、社員は全然動かない。「物流拠点を見にいく」と言っても、だれもついてきません。しょうがないから1人で行き、在庫を蹴飛ばしてアピールして、1年間騒ぎ続けていたら、ようやく根負けして捨ててくれる社員が現れました。継続は力なり、です(笑)。

 在庫処分になぜこれほど抵抗があるかといえば、「だれがこんな売れないものをつくったんだ」という責任問題になるのを、社員が恐れているからです。「責任は問わない」と言い続け、実際に捨ててもお咎めなしなのが知れ渡るまで、ひたすら忍耐です。減り始めてからは早くて、約860品種あった商品アイテムが、3年で280になりました。これだけ減らしても、売上には影響なしでした。売れもしない商品がいかに多かったかが分かります。

 新商品も当時は年間60種も出ていました。開発スタッフが60人いて、1人が1つはつくらないと格好がつかないから60品目。ものによってはCMを打つし、返品されてくれば廃棄する。たいへんな負担です。思い切って1つに絞ることにしました。

 「日産のカルロス・ゴーン社長より、おれのほうが早かった」と、私は社員に自慢しているんです。ゴーン氏の「選択と集中」は話題になりましたが、エステーは同じことを一足先にやりましたからね。

☆本サイトの記事は、雑誌掲載記事の冒頭部分を抜粋したものです。

 

鈴木 喬
(すずき たかし)

エステー会長

1935年生まれ。1959年一橋大学商学部卒業後、日本生命保険に入社し、企業保険のトップセールスマンとして活躍。1986年父と兄が創業したエステー化学(現エステー)に入社。企画部長などを経て、1998年代表取締役社長に就任。チーフ・イノベーターとして「消臭ポット」「消臭力」「脱臭炭」「米唐番」など「世にない商品」を開発し、大ヒットをもたらす。ニッチ市場の開拓により、経営苦境に陥っていた同社を再生した。2007年に社長を退任し会長に就任するも、2009年に社長に復帰。2012年からは再び会長職を務める。著書に『社長は少しバカがいい。』(WAVE出版)がある。

 

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