※本記事は、長谷川嘉哉著『一生使える脳』(PHP新書)より、一部を抜粋編集したものです。
聞き方一つで、記憶がよみがえる
私たちの記憶力というのは不思議なものです。
先日、認知症の患者さんが娘さんと一緒に来院され、診察室でこんな出来事がありました。患者さんは、定期的に俳句の会に行っています。
娘さんは心配そうに、数日前のお母さんとのやりとりを聞かせてくれました。
「句会の日の夜、母に『今日は、どこに行ってきたの?』と質問したら、『どこにも行っていないよ……』と答えるんです。帰宅してすぐに行き先を忘れてしまうなんて、かなり認知症の症状が進んでいるんでしょうか」
身近にいる家族だからこそ、小さな変化にも敏感で、「大丈夫かな」「状態が悪くなっているのでは?」と考えてしまいます。
しかし、ちょっと聞き方を変えるだけで、患者さんは句会のことを思い出します。もし、あなたが「認知症=記憶が失われる、脳の機能が全体的に低下する」というイメージを持っているなら、それは過去の映画やドラマでの描写の影響を受けているのかもしれません。
この日、私は句会について、患者さんにこんなふうに尋ねてみました。
「◯◯さん、昨日は□□へ俳句の会で行かれたそうですね?」
すると、患者さんは笑顔で、「はい、行ってきましたよ。道すがらの公園で、三色の蓮の花が咲いているのを見たので、こんな句を詠んだんです」と。詠んだ句まで、すらすらと教えてくれたのです。
隣にいた娘さんは「聞き方一つで、こんなに違うんですね」と驚きつつ、ホッとした表情を浮かべていました。
「今日は、どこに行ってきたの?」ではなく、「昨日は□□へ俳句の会で行かれたそうですね?」と聞くことで、患者さんは句会に行ってきたことを思い出したのです。
じつはこのやりとりに「一生使える脳」を育むヒントがあります。
認知症の患者さんの脳は、句会に行ったことを忘れていたわけではありません。しかし、「今日は、どこに行ってきたの?」という問いに対して、記憶の中から「句会に行ったこと」を引き出すことができなかったのです。
ところが、「昨日は□□へ俳句の会で行かれたそうですね?」と聞くと、句会に行ったことだけではなく、そこで詠んだ句もすらすらと出てきました。
この患者さんの場合、認知症の進行によって前頭前野を中心とした機能が低下し、ワーキングメモリがうまく働かない状態になっていました。前頭前野はあなたの額の奥、脳の前のほうに位置し、思考力や創造性、知的生産を担う部位です。
思考力が向上すれば、決断力も上がり、自分の意思を強く持つことができます。
そして、意思を強く持つことで前頭前野は脳の司令塔として明確な指示を出すことができるのです。
知的生産のカギを握るワーキングメモリ
脳のパフォーマンスが落ちていないとき、人は「今日は、どこに行ってきたの?」と聞かれると、「今日か……」と考えながら、一日の行動に思いを巡らし、さまざまな記憶を呼び起こします。
この「今日か……」と考えながら、頭の中にあるさまざまな記憶や情報を結びつけていくのが、ワーキングメモリの働きです。
こう書くとあまりにも当たり前のことなので、その重要性が伝わらないかもしれませんが、ワーキングメモリは、脳内の作戦本部のようなもの。入ってきた情報を一時的に保存して、脳内の他の情報と組み合わせ、思考、計算、判断などの知的生産作業を行います。
脳の前頭前野に位置するワーキングメモリという作戦本部は、日々押し寄せる大量の情報を一時的に保存し、整理しています。デスクで仕事をしているときにかかってくる電話、届くメール、上司からの呼び出しによってズレていくスケジュール。ふとした拍子にSNSを開いてしまい、そこから別のWebサイトを閲覧し、興味が次から次へとスライドしているところに同僚から「午前中の案件、どうなった?」と声がかかり、現実に引き戻される。そんな日常の時間もワーキングメモリは働き続けています。
そこで果たしている機能は主に2つです。
・情報を利用して作業できるように、一時的に保存すること
・情報に優先順位をつけてから、処理すること
あなたが友人や家族から「週末はどうでした?」「今日の仕事はどうだった?」と聞かれたとき、「久しぶりに温泉に行ってきたんだけど、とんでもないことがあってね」「今日は会議が長引いて、部長の話が終わらないんだよ」などと返しながら、ポンポンと会話を交わしていくことができるのも、ワーキングメモリの働きです。
私たちは仕事や勉強で、このワーキングメモリを日常的に使用しています。