禅と武士道における死生観
2018年10月16日 公開 2023年04月05日 更新
「絶対負」である死が生命の根源を支えている
執行 私は、人間の生命の根源を支えるエネルギーを「絶対負」と呼んでいます。これは悲しみや苦しみ、犠牲や愛など、他の生命体にとっては負のエネルギーにしかならないものが、人間にとっては生きるエネルギーになる、という意味です。
他の生命体は「正」のエネルギーで生きています。でも、人間だけは「負」のエネルギーを持って生きられる。むしろ、人間の生命の根源は「負」であると思っているのです。
「負」に「絶対」をつけたのは、「負」だけだとどんなに説明してもマイナスのイメージになってしまうからです。つまり、劣って低い感じがしてしまう。
横田 相対の「負」ではなく、絶対の「負」という意味ですね。相対は比較できますが、絶対は比較できない。
執行 そうです。絶対的な「負」は人間の生命では死といってもいいですね。
例えば、われわれは毎日、死んだ細胞を入れ換えて生き続けている。生の本体は死で、その上に生が乗っかっている、ということです。死は「負」のイメージかもしれませんが、決してそうではない。生きるというのは死に続けることだというのが、私の根本思想です。
横田 おっしゃる通り、死は敗北ではありません。もっとポジティブな意味を持っています。
これは笑い話なのですが、うちの若い者に「あなたのところのおばあちゃん、お元気?」と聞いたら、「元気です」と言う。「おばあちゃん、大事にしてる?」と尋ねると、「みんなで大事にしています」と。
で、さらに聞いてみたのです。「でも、おばあちゃんが死ななかったらどうする?」。しばらく考えて若い者は言いましたね。「死ななかったら困ります」(笑)。
死ななかったら大事にしない。死ぬから愛する。死がなかったら、愛も何もない。破滅です。だから、死は大きなものを生み出すのです。
執行 死があってこその生だということがわからないと、本当の価値観が生きないと思いますね。
私の生も横田管長の生も、その本体は死にある。しかし、今ほんの一瞬、生命を与えられて生きている。その管長の生命の輝きと私は今、こうして対峙しているわけです。そこがいとおしさであり、この縁を大切にしたいと思う所以です。これが一瞬でないなら、大切にする必要なんかないわけです。
横田 まさに「空」が「色」を支えているわけですね。
執行 ええ。西洋的にいえば、キリスト教の信仰に生きた中世の社会で合言葉となった「メメント・モリ(死を想え)」の考え方です。死ぬことがあって、初めてわれわれはこの世の幸福を一瞬味わうことができる。この一瞬だから尊いのです。
私も体当たりで生きているつもりですが、死があるからそうやっているのであって、永遠に生きるのであれば、多分やらないですよ。「絶対負」のエネルギーの代表である愛も信も義も、肉体から消し飛んでしまいますから。
本稿は、マネジメント誌「衆知」連載《禅と武士道》(2018年5・6月号)より、その一部を抜粋編集したものです。