徘徊行動に隠されていた「人生と情熱」
旅立ちが近づいてきた夫は、だんだんと私には理解ができない行動をとるようになりました。たとえば、ある日のこと。冷蔵庫を開けると、夫の仕事用の鞄(かばん)がたくさん入っていたのです。
私は、あきれながらも「なにやってんの、またぁ……」という軽いノリで急いで片付け、笑って済ませました。
実はそのころ、夫の徘徊が始まっていました。朝の4時ごろから、ひとりで起きて家中をぐるぐると徘徊するのです。旅立ちの3か月ほど前の話です。
私は夫のどんな行動についても、笑って軽く流すようにしていました。当時は夫から目が離せないこともあり、彼の行動のひとつひとつの意味を深く察するのは、なかなか難しいことでした。
そのようなわけで、冷蔵庫に冷やされた鞄の本当の意味に気づくことができたのは、お恥ずかしい話ですが、夫の旅立ちのあとでした。
フィルムというものは繊細なもので、冷蔵庫で保管します。
「あの人が仕事用の鞄をいくつも冷蔵庫に詰め込んでいたのは、フィルムを冷やしているつもりだったのではないか」
カメラマンの夫の死後、ふとした拍子にそう気づいた私は、愕然としました。
「あの人は、鞄を冷蔵庫に入れたとき、まだ写真を撮るつもりだったのかなぁ」
「もっともっと、仕事をしたかったのだろうか?」
そう思うと、ひとりでに胸が熱くなりました。たくさんの鞄を冷蔵庫に入れたことをなじったり、怒ったり、嫌味を言ったりしなくてよかったと思いました。
と同時に、看護師でありながら、それまで「徘徊」の意味についてそれほど深く考えたことがなかったのだと痛感しました。たとえコミュニケーションがとりづらくなった人であっても、人生をかけてきたことへの想いや情熱は、まだその人の心で燃え続けているのだ。
そんな大切なことを、先に旅立った夫が教えてくれたのです。