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信玄堤を鉄壁にした武田信玄の「斬新なアイデア」

竹村公太郎(元国土交通省河川局長),養老孟司(解剖学者)

2019年10月18日 公開 2024年12月16日 更新

信玄堤を鉄壁にした武田信玄の「斬新なアイデア」

巨大台風が日本各地で河川が氾濫し、大きな被害をもたらたことで、治水の重要性が浮き彫りになった。

そのなかでも戦国時代に武田信玄が築いた「信玄堤」が現代においても釜無川(山梨県)の決壊を防いだ、とSNSを中心に話題を集めた。

PHP新書『本質を見抜く力』にて、元国土交通省河川局長だった竹村公太郎氏は、解剖学者の養老孟司氏との対談で、信玄堤を強固なものにする意外なアイデアと、それを徳川幕府が江戸の築堤において転用し治水事業に生かしたことを言及している。本稿では同書よりその一部を抜粋し、紹介する。

※本稿は養老孟司・竹村公太郎共著『本質を見抜く力』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。

 

武田信玄のアイデアを盗んだ徳川幕府

【竹村】私が広重の絵を好きなのは、広重の絵が江戸幕府の官僚たちの秘密主義のチェックの網目から外れているからです。

「江戸名所百景」などを見ていると、「幕府はこういう狙いで日本堤(にほんづつみ)を造ったんだ」「遊郭を移動させたのはこのためだったんだ」といったことが想像できます。何も証拠がない代わりに、物語を作る楽しみがあるのです。物語を作るのは楽しいですから……。

【養老】歴史は物語ですからね。

【竹村】そうです。たとえば、浅草に日本堤を造る。造った当時は人通りが少なかった日本堤に日本橋から遊郭を移転させていく。

すると日本堤が賑やかになる。結果として遊郭の客が堤防を踏み固めてくれる。そんな具合です。

これはオーソドックスなやり方でして、武田信玄は釜無川(かまなしがわ)の信玄堤を造ったときに、神社を造って民衆にお祭りもさせています。これも実は、堤防を踏み固めるためのお祭りなのです。

信玄が立派だったのは、信玄堤を造るだけではなく、そのインフラを地域の民衆に自然な形で維持管理させるシステムを作ったことです。そのアイデアを浅草の日本堤で盗んだ徳川幕府の官僚たちには侮れないものがあります。

 

利根川の流れを江戸湾から銚子に変えた、家康のすさまじい構想力

【養老】利根川の東遷(とうせん)は、関東平野を乾燥させるためですか。

【竹村】いろいろな理由があります。河口を銚子へ持っていくことで大洪水を向こうに導くようにしたというのが一点。東北とは陸地続きだから、仙台の伊達藩の進入を防止するために関東に入る地点を削り、利根川を流すことで東北から江戸へ向かうルートを遮断したというのが一点。

さらに船上交通の利便性を上げる目的もあった。このようにいろいろ考えることができます。ともかく、江戸湾に流れ出ていた利根川を銚子のほうに持っていった家康の構想力にはすさまじいものがあります。

【養老】利根川東遷は知っている人が少ないのです。銚子に利根川という大河の河口があるなんて、どう考えても変なのに。

【竹村】そうですね。あそこは岩盤で、いわゆる三角州ではない。ナイルデルタと形が似ていますが、違うんですあれは。

徳川家康が最初に江戸に入ったのは1590年のことですが、彼は年中鷹狩りに出かけています。これは野外調査だったのです。そうやって、栗橋の地を切り裂いて利根川を銚子まで持っていく計画を立案した。

利根川を銚子の方へ導くことで大湿地帯だった関東平野が乾いてきて、日本一の穀倉地帯になってくる。19世紀末、欧米列国に囲まれた日本が植民地にならなかった多くの理由のうちの一つは、日本中の英知と力を集中させる関東平野があったからです。

この関東平野に日本中の力と智恵を集中させて近代化を成し遂げ、最後の帝国にすべり込んだから植民地にならなかった。歴史を遡ると、近代化は家康のインフラ工事のおかげだったとも言える。

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江戸時代の日暮里はタンチョウヅルが生息する湿地だった

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