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真田信繁の手紙に残る“謎の焼酎”に迫った小説家…文献から読み解いたその一杯の味は?

黒澤はゆま(歴史小説家)

2020年05月02日 公開

 

焼酎はどう日本に伝わったか?

さて、この蒸留酒、どのように日本に伝わったのだろうか?
諸説あるが、最も有力なのはインドシナ半島から琉球を経路して南九州にやって来た説である。

日本本土において蒸留酒が作られていたという記録の初見は、天文15年(1546)である。ポルトガルの貿易商が薩摩の山川には、米によって作られたorraquaがあった記録を残している。orraquaは、ポルトガル語で蒸留酒を意味し、無論、語源はアラクである。

ちなみに、鉄砲が伝わったのは天文12年(1543)で、この記録の三年前である。鉄砲は中国船に乗っていたポルトガル人がもたらしたものだったが、鉄砲も焼酎も、大航海時代という同じ波に乗って日本にやって来たということになる。

それから13年後の永禄2年(1559)には、南九州の風俗に不可欠な存在になっていたらしい。鹿児島県大口市郡山にある八幡神社の建築にかかわった大工が次のような文句を本殿の柱に落書きしている。

「永禄二年八月十一日 作次郎 鶴田助太郎
其時座主ハ大きなこすでをちやりて一度も焼酎ヲ不被下候 何共めいわくな事哉」

神社の座主がケチで、焼酎を振る舞ってくれないと愚痴をこぼしているわけである。大工のような一般庶民でも、振る舞い酒として口に入ることが当然と考えるくらいには、一般的な存在になっていたことが分かる。
ちなみに、この落書きが、焼酎という文字の初見である。

 

酒粕か米醪か?

さて、この戦国時代に作られていた焼酎がどのようなものであったかという問題になるとなかなか難しい。

現代は芋をはじめ様々な原料の焼酎があるが、どれも近世以降に出来たものである。粟や稗など雑穀を混ぜることがあったとしても米が主原料の焼酎だったことは間違いない。

「じゃぁ、米焼酎なのか。最近、人気の『鳥飼』でも飲むか」

と結論付けたくなるが、これは早合点。現代の主な米焼酎は酵母に白麹という焼酎用の麹を使っているうえ、二段仕込み、つまりまず酒母を作ってから、主原料を混ぜて本格発酵させるという複雑な手法を取っている。

そのため、私は戦国時代に飲まれていた焼酎は、現代の米焼酎と区別するため、米原料焼酎と表現する。

そして、米原料焼酎のなかでも以下二つの製造方法があったと思われる。

酒粕を蒸留する方法
米醪を蒸留する方法

信繁の手紙の頃は、ちょうど焼酎の記録の空白期間にあたるため、それから後の史料をひも解く他ないが、貞享三年(1686)刊行された、童蒙酒造記には「粕取焼酎」の製法が紹介されている。

著者は不明だが、作中で鴻池流を名乗っており、鴻池流は摂津国鴻池郷(現兵庫県伊丹市鴻池)の日本酒造りの流派である。そのため、酒屋の副業として焼酎が造られていたこと、焼酎前線が最低でも兵庫までは北上していたことが分かる。

また、童蒙酒造記より10年ほど後、元禄10年(1697)刊行の本朝食鑑にも「粕取焼酎」の製法が記載されている。『本朝食鑑』の著者である人見必大は幕府の侍医の子息で、その見分は江戸が中心と思われる。

その彼が特に産地の断りなく、粕取り焼酎の製法を書いているので、元禄時代には、酒屋の副業としての焼酎造りは、江戸でも当たり前にみられるものだったようだ。

面白いのは、本朝食鑑では、島津支配下の薩州(薩摩)で、濁酒から泡盛が作られているとも書かれてあることである。

琉球の泡盛と混同してややこしいが、江戸時代初期、まだ沖縄で作られる蒸留酒をどう呼ぶか統一されておらず、薩摩で作られた焼酎を泡盛と呼ぶこともあったし、琉球の泡盛も「琉球酒」、「焼酎」、「焼酒」等、様々な名で呼ばれていたのである。

こちらは濁酒と書かれてあることから、米醪から作られた焼酎ということになる。

粕取焼酎の製法が特に産地の断りなく書かれているのに対し、米醪焼酎は島津家の薩州と限定していることから、粕取焼酎は日本全土で普遍的にみられる製法なのに対し、米醪焼酎は南九州特有のものと推測できる。

さて、では、信繁の焼酎は、一体どう、そしてどこで作られたものだったのだろうか? ここで私の調査ははたと行き詰まってしまった。何せ、先ほど述べたように、信繁時代の焼酎の記録は本当に少ないのである。

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