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真田信繁の手紙に残る“謎の焼酎”に迫った小説家…文献から読み解いたその一杯の味は?

黒澤はゆま(歴史小説家)

2020年05月02日 公開

 

一体誰?左京の謎

一旦、どのように造られたかという問題はおいて、どこで造られたかという問題について考えてみよう。

そして、捜査が行き詰まった時は、現場に戻るが鉄則である。信繁の手紙を読み返して見て、肝心なことを見落としていることに気づいた。

宛先に書かれている左京。
こいつは一体誰なのだ?

改めて調べなおしてみると、かつては「河原右京綱家」という真田家の重臣と考えられていることが分かった。左京は右京の誤記だというのだ。

だが、『真田信繁の書状を読む』のなかで丸島和洋は、これに異論を唱えている。「下る」という言葉を、当時、上田にいたはずの綱家に使うのはおかしいというのだ。

私も当時、焼酎前線が信州まで北上していたとは考えにくいことから、おかしいと思う。それにはるばる上田までわざわざ壺を持たせて使いにやるだろうか。左京という人物は、九度山に近い、京都近辺に居た人物と考える方が自然だと思われる。

代わって浮上してくるのが、「西山左京至之」という人物である。

あまり知られていない人物だが、実は大変高貴な血筋の人間で、室町幕府十三代将軍・足利義輝の孫である。信繁の手紙が保管されている高野山の蓮華定院は、同じく左京を宛先とした兄信之の手紙が残っている。

左京は最終的に細川藩に仕えたが、もともと主筋に当たるため、立場は客将に近いものだったらしい。信繁が手紙を出した頃の動向は不明だが、京都にいたとしても不自然ではない。

細川忠利が、左京に宛てて「上方で何かあったらすぐ報告してほしい」と述べた手紙が残っているためである。彼はその独特の出自から、京・大阪の社交界に顔が効き、一種の情報通だったのだろう。

信之の息子、信牧も左京宛に手紙を送っており、左京と真田家との付き合いは家ぐるみのものだったようだ。その付き合いの中で、京に滞在する左京に、信繁は焼酎を所望したものらしい。

京都なら酒どころだし、その副業として焼酎を作っていてもおかしくない。だとしたら、その焼酎は京都で作られたものなのか?

 

俳諧書の『毛吹草』に焼酎のことが!!

信繁が飲んだ焼酎は京都で作られた。

そう決めてしまいたいが、どこで造られたかと、どう造られたかは、密接に関連がある。

それに、『童蒙酒造記』『本朝食鑑』ともに、信繁が生きた頃より、70年以上後の書物である。信繁が生きていた頃、焼酎前線がすでに京都まで北上していたかどうか、どうにも心もとない。

ということで、焼酎史に詳しい元宝酒造(株)酒類研究所所長の高山卓美氏に教えを乞うことにした。そして、大変なヒントをいただいたのである。

「その手紙から大体30年後、正保2年(1645)刊行の毛吹草に山城国の特産として消酎(焼酎)が記載されていますよ」
「えっ!?」

調べてみると確かに……童蒙酒造記や本朝食鑑のような酒造関係の書籍については調べていたが、俳諧書はノーマークだった。だが、これで、正保2年には焼酎前線が確かに京都まで来ていたことが証明された。

そして、ある物産をその地方の特産品にするのは昨日や今日で出来ることではない。年、時に十年単位の長い時間がいる。信繁の時代には、すでに京都の酒屋で酒粕焼酎が造られだしていたのである。

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信繁が飲んだ粕取り焼酎に一番近いのは!?

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