前田慶次の心を動かした、大河ドラマ『利家とまつ』の魅力
2020年07月07日 公開 2022年06月30日 更新
前田利家とは…不動のナンバー2武将
前田利家は信長の家臣、秀吉の友、加賀国(石川県)など北陸一帯を治めた有名な武将。槍の又左という異名の名の通り、戦場で活躍し、大名へと出世した後には豊臣政権において五大老という役職まで上り詰め、秀吉の跡継ぎ、豊臣秀頼の後見人となる。
信長、秀吉、家康の三英傑のような派手な印象はないが、戦国時代において多大な影響を与えた武将の一人である。出身は、尾張の荒子。今の名古屋市中川区の地方豪族である。
前田家の四男で、大うつけと称されていた信長の側近として仕え、赤母衣衆(あかほろしゅう)の筆頭として信長の天下布武に尽力した。信長亡き後、秀吉の片腕として天下統一を手助けした。
秀吉の夢物語のような出世劇に隠れがちではあるが、利家も際立った出世を果たしていた。しかし秀吉とは違い、戦での武功を立て確実に一歩ずつ着実に登り詰めていった。
『利家とまつ』ではその生涯をドラマ化しており、荒子で"かぶいていた"時代から描かれている。「失うものがない。戦場で果てるのが本望」と戦い続けた利家も守る者が増え、立場も変わり、戦場や政治の立ち回り方が変化していく様は、現世を生きる会社員達にも通ずるところがあるのではなかろうか。
同輩に秀吉という異例の出世を果たす人間がいたために、利家は己の在り方を模索する。その利家の心も内の葛藤の見所のひとつじゃ。
子だくさんだった強き母、まつ
前田家の四男で出世街道かとは程遠かったはずの利家が加賀百万石の礎まで築くまでに至ったのは、間違いなく妻であるまつの功名があったと儂は考える。
まつは、子だくさんの母だった。なんと11人もの子どもを産んだのじゃ。11歳から32歳まで、約21年間に2男9女。できるだけ多くの子を生むことを望まれた戦国時代において貴重な女性だった。
年の差はあれども、まつは夫の利家に対して意見することも多かった。その意見を聞いた利家が、お金の大切さを感じて貯蓄に励むようになったが、一方で前田家にとって重大な局面だった末森城の戦いにおいてお金を惜しむ利家を叱責した逸話も伝わっておる。
末森城へ援軍に向かい、行軍する際に「末森の城が落城するようなら、尾山(金沢)の城に火を放ち自害致しまする」と前田軍に説いて士気を高めたとも伝えられている。まつらしい鼓舞である。因みに、この末森城の戦いは儂、前田慶次が活躍した戦でもあるぞ!
他にも、前田家が徳川と険悪な状況になると、一族を守るために、まつ自ら徳川の人質になる為江戸に入る。利家が亡くなった後も、前田家の為に最後まで尽力した。
『利家とまつ』で描かれたまつはその個性が上手に描かれていた。武将の妻達とも良好な関係を築く姿に加えて、利家だけでなく他の男達にもはっきりと物申す姿。後世にまつの存在と功績を強く印象づけることになっただろう。
劇中でまつは利家の陣羽織を手縫いで作り、常に利家の身を案じていた。この陣羽織は実際に存在し、重要文化財として現在も残されている。