「あんなことやって何になるの?」「あんなことはくだらない」――このような発言をしていたら、それは人生が停滞しているサインかもしれない。加藤諦三氏は人生を充実させるためには「価値を見出す精神」が重要であると語る。その精神とは何か。本稿では同氏のサイン会で起きたある出来事から、人生を充実させるために必要な精神について言及している一説を紹介する。
※本稿は、加藤諦三著『「自分」に執着しない生き方』(PHP研究所)より一部抜粋・編集したものです。
他人をさげすみ、自分の価値を保つ人
ここでまた話は飛ぶのだが、僕がある本屋に本を買いにいっていた時、たまたまそこで、ある作家のサイン会が開かれていた。僕は別にその作家のファンではないので、サインなどしてもらわず、遠くで本を見ていた。
そして帰ろうと思ってその本屋を出た時、そこを通った若者が「あんなことしてバカバカしいや、おれの字でも同じだい」といって通り過ぎたのをおぼえている。
僕は妙にその言葉をおぼえていたので、サイン会を頼まれた時、きっと僕の時も、そういって通る人もいるだろうと思った。そして、きっと通ったにちがいない。
だが僕がここでいいたいのは、その当然のことをいった人、つまりサインなんてバカバカしいといった人、いいかえれば正しい人、その人のほうがはるかに、僕のサイン会に来て僕と握手をするという二重のバカさ加減を発揮した人より、無気力、無関心、無責任の若者だったのである。
まさにその人が理屈としては正しいことをいっていたのである。ただ、そのニヒリストは気がついていなかった。この世の中でくだらなくないことなど何もないのだ、ということを。例えば山に苦労して登る――しかしそれだって、彼の理屈からいえば、くだらないにきまっている。
なぜ、そのニヒリストはくだらないといったのだろう。ひとつはくだらないということによって、サインをしてもらおうとして並んでいる人より、自分のほうが利口だと思えることである。他人をバカにすることによって、自分が何かえらくなったような気持ちになる、あわれな人だったのである。
そしてもうひとつは、くだらないということによって、そのサインをしている作家の価値を否定できる。人々が認めている人の価値を否定することによって、自分の価値が保てるように感じたのである。作家を認めてしまうと何か自分の価値がなくなってしまうような気がしたのだろう。
彼はくだらないと人々をさげすむことによって、かろうじて自己の価値を保っていたのである。おそらく彼がくだらないというのは、何もサイン会だけではないはずだ。きっと何を見ても同じようにくだらないというだろう。
なぜか?それは、あらゆるものをくだらないとしておかなければ、自分の価値がなくなってしまうからである。彼はくだらないということで、傷ついている自分の神経症的自尊心を保とうとしただけである。
人間はだれだって自分の価値を感じたい。自分の価値の実感を失いたくない。人間には価値意識がつよい。なんとかして価値につらなっていたい。いってみれば彼はくだらないということによって、世の中に存在している価値を否定するところの逆の価値とつらなることができたのである。
もしサイン会であろうが、登山であろうが、社会事業であろうが、出世であろうが何であろうが、それを価値あるものとしてしまったら、彼はどうなるか――彼は自分に価値のないことを認めなければならない。価値観をもっている人は、その価値とつらなっているということで無気力にはならない。
マラソン、それをくだらないと思ってないで、それに価値観をもっている人は、マラソンで生きがいを感じる。社会改革にしても同じである。作家だって政治家だって同じである。