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周囲に好かれようとして嫌われ…「みじめさを売る人」の悲しい末路

加藤諦三(早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員)

2021年12月01日 公開 2023年07月26日 更新

 

過去の中で生きているから進めない

彼らには、「いま、この時」ということもないし、自分の個性も相手の個性もない。

いまを生きていない。過去のある時期で生きることが止まっている。体はいまにいるが、心は過去にいる。だから不満を言っていればいい。

「私はうれしい」と言ったほうが人は注目する。そのほうが好かれる。

でもみじめ依存症の人は、周囲が哀れみを感じるものにしがみつく。そこで好かれようとして嫌われることをする。

泣いてみんなに迷惑をかけている。嫌われる。泣きつつ、好かれようとする。自分がみじめであると訴えることがすべてに優先する。

では、なぜ「私はうれしい」と言えないのか?それは幸せになる能力がないからである。憎しみがあるからである。敵意があるからである。

人は幼少期に「いかにして愛を得るか?」ということを間違える。自分の弱点を誇示することで同情を得ることを学んでしまうと、大人になってもそれを手放さない。

みじめ依存症の人は愛情のない家族のもとで成長している。それなのに「私のお母さんは、やさしくて立派な人です」と言う。どうしても現実を認めない。

いじめられて自殺した子が「僕をいじめた人を責めないでください」と書いたのと同じである。そこまで人から嫌われるのが怖い。

したがってみじめ依存症の人には、周囲の人との心のふれあう関係がない。心理的健康な人は、愛情のある家族のもとで成長している。したがって自分と相手とのかかわりの中で相手のことを考える。

だから、これは自分がしたほうがいいのか、しないほうがいいのかを考える。

みじめ依存症の人は、小さい頃から人との関係といえば、それはつらい関係のことである。人間関係といえば、それは何をしても責められるだけの人間関係である。

そこでみじめ依存症の人は、好かれようとして嫌われる。

「他人は、年中不運を嘆いている仲間を避け始めるでしょう」。

それは、人は彼と話していると気持ちがふさいでくるからである。

相手が落ち込むのは、みじめ依存症の人の隠された攻撃性が原因である。誰でも隠された攻撃性にさらされたら落ち込むし、その人を避けようとする。

こちらが、相手にとって自分がどういう存在かを考えて行動するから、相手が安心するのである。だから相手はその人とのつきあいを喜ぶのである。

心理的健康な人は、相手にとって自分が親友だか、友人だか、知人だか分かっている。お互いにその関係が分かっている。

みじめさを訴える人、もっと一般的に悩んでいる人は、お互いに納得している関係がない。

お互いに相手を親友と思っている。お互いに相手を恋人と思っている。お互いに相手を師弟関係と思っている。それがお互いに納得している関係である。

みじめさを訴える人、もっと一般的に悩んでいる人は、自分が勝手に相手との関係を決めている。

みじめ依存症の人は、周囲の人にとって負担になる。そして周囲の人が自分のことを心配することを、当たり前のこととして要求する。

「心配してくれて、ありがとう」と言う人なら周囲の人の負担にならない。また「心配してくれて、ありがとう」と言う人は、みんなが自分のことを心配しなくても、それを恨まない。

みじめ依存症の人は、「私はつらい」という言葉で相手を暗に非難している。みじめ依存症の人は、そのことに気がつくことが大切である。それに気がつかなければ先に進めない。

【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。   

 

著者紹介

加藤諦三(かとう・たいぞう)

早稲田大学名誉教授、元ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員

1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。

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