姉のむめのからきた手紙を、しっかり懐中におさめていた。鶴橋までの道順が手紙には書いてあった。四つ橋で市電をおりた。南ゆきに乗り換えて、難波へ出る。当時大阪市内の市電は梅田、江戸橋、四つ橋、難波、恵美須町の南北線と、築港桟橋、夕凪橋、千代崎橋、四つ橋、末吉橋の東西線が走っていた。
市電の窓からみえる大阪の街は、古びて汚れていた。軒のひくい家々が、ひしめきあっている。家々は朽木の色をしていた。ほとんどの白壁が埃で汚れていた。ビルはまだ、ところどころで目につくだけだった。人力車や荷馬車がゆききしている。自動車がときおり埃を立てて走っていた。天秤棒をかついだ物売りや、荷車をひいた男女の姿が、どの街角でも目についた。みんな苦労している。道頓堀や飛田の歓楽街が、同じ大阪にあるとは思えなかった。
難波からは、乗合自動車で鶴橋へゆくはずだった。少年は停留所の前を素通りした。道頓堀のほうへあるいてみる。電車の窓から街をながめるうちに、浮ついた気持ちがなくなっていた。たいへんな土地へ出てきた予感で、身がひきしまった。活動写真や寄席どころではなさそうだ。
きっと、つらい生活がはじまる。盛り場へあそびにくる機会もあるまい。姉の家へ着くよりさき、道頓堀を見ておこう。そう少年は心にきめていた。行李をぶらさげたまま、繁華街へ入った。そろそろ空腹をおぼえていた。
道頓堀は、まだ水が澄んでいた。小船がゆききしている。今日とちがって、堀に沿って家並みはなかった。道をへだてて劇場や活動小屋がならんでいる。日曜でもないのに、人通りは多かった。
劇場や活動写真の呼び込みの声が交錯しあっていた。香具師の口上、たたき売りの呼び声もあった。洋服の紳士淑女が、大股にあるいている。芝居見物の女たちの着物姿も華やかだった。うなぎ、焼鳥、関東煮、ライスカレー、うどん、ぜんざい。食物の香りがまじりあい、渦を巻いている。少年は空腹で目がまわりそうになった。
「びっくりうどん七銭」「びっくりぜんざい七銭」と大書した食堂があった。少年は、そこへ入った。木の椅子とテーブルを土間にならべただけの食堂だった。
びっくりうどんを注文した。頭が入りそうなどんぶり鉢が運ばれてきた。うどん玉二つ。餅も入っている。汗をかきながら、すすりこんだ。薄味でとても美味い。量もたっぷりある。商家の番頭や丁稚、人力車夫、人夫、馬喰といった男たちが、入れ代わり立ち代わり入ってきた。みんな汗をかいて、手拭いで顔を拭いた。満足して出ていった。
知らず知らず少年は、客の数を数えていた。たちまち五十を越えた。三円五十銭の売上げである。少年はため息をついた。叔父の船で働いたとき、月給は七円だった。その半額にあたる金が、ものの三十分とたたないうちに食堂へ入るのである。大阪は広大だ。百万人以上も人がいる。あらためて少年は、それを認識した。いい品物をあつかえば、大儲けできる。一人一円ずつ買わせても、百万円になる。淡路島が買えるぐらいの金である。大阪には海のイワシの群れのように金が泳いでいる。
大きな仕事が、できそうな予感がした。あらためて少年は手足に力がみなぎった。びっくりうどんの効用であった。大股に少年は食堂を出た。もう成功したかのように胸を張った。乗合自動車の停留所のほうへ、あるいていった。
鶴橋で少年は、乗合自動車をおりた。大阪電気軌道(近鉄)の駅の南へ入ると、棟割長屋のひしめく町だった。ほとんどが平屋である。道はせまく湿っていた。食物のすえた匂いや、洗濯石鹸の匂い、ドブの匂いがただよっている。中の中の小坊んちゃん。子供たちが大阪式の「かごめかごめ」であそんでいた。かぼそいO脚をした子が多かった。
似たような長屋から長屋をしばらくさまよった。ようやく姉の家をみつけた。「松下幸之助」と表札が出ている。姉の夫の名前である。ごめんやす。大声で呼んで戸をあけた。長屋ではない。平屋の一軒家だった。
三坪ばかりの土間があった。型押し機械やかまどが目についた。義兄の松下が、かまどのそばで大きな鉄鍋のなかをかきまわしている。手をとめて、彼はふりかえった。
「おう。きたかトシオ」
やさしい声で彼はさけんだ。住居と兼用の電気製品工場だった。
姉のむめのが、前掛けで手を拭きながら、台所から出てきた。高い声で歓迎する。手をとるようにして、迎えいれてくれた。ちょうど昼だった。姉は、食膳に少年のぶんの茶碗と皿をならべてくれる。お母ちゃんは、元気か。やすえや祐郎、薫はどないしている。早口でむめのは実家の消息をたずねた。
「おれ、お昼済ましてきてん。道頓堀で、びっくりうどん食うたわ」
少年は姉に報告した。お茶をもらって、食膳のある三畳間で足をのばした。
大阪城の正午のドンが鳴った。義兄の幸之助が仕事をやめて土間から三畳間へあがってきた。ようきた。しっかりがんばってや。幸之助は少年を歓迎した。ついで、たしなめた。
「ここへきたら昼めし食えるのに、外で食うやなんて、不経済やないか。あそびにきたんとちがうんやで。むだづかい、しなや」
幸之助は色の白い、顔も体つきもほっそりした若者だった。
声もやさしかった。だが、いうことはきびしかった。少年は、予感が的中したのを知った。盛り場どころではなかった。働きづめの、苦しい生活が待っているらしい。覚悟の上だった。若いころは、みんなそうなのだ。
幸之助とむめのは食事をはじめた。塩昆布と漬物が、むめののお菜である。幸之助には、ほかに卵焼きのお菜がついていた。
自分ひとり、幸之助は美食していたわけではない。かるい肺結核に彼はやられていた。栄養をとって安静にする以外、療法がなかった。安静にしていられる身分ではない。むめのは夫に栄養をとらせることに必死だった。食がすすむかどうか、夫の箸の動きに、たえず目を光らせている。
「びっくりうどん、美味かったか」やがて、幸之助が訊いた。笑っている。
「美味かったわ。けど、量はびっくりするほどやなかった。もう一杯食えそうやった」
「ほんまかい。あれもう一杯食えるってか。たいしたもんやなあ。船できたえた若い者は体のできがちがうんやな」
幸之助にいわれて、少年は得意だった。
どんな角度から幸之助をたすければよいのか、わかったような気がした。午後からすぐ働こう。勇んでそう決心した。
<作者紹介>
阿部牧郎(あべ・ まきお)
1933年生まれ。京都大学文学部卒。1988年、『それぞれの終楽章』(講談社)で第98回直木賞を受賞。戦記小説、時代小説など幅広い分野で健筆を振るっている。近著に『神の国に殉ず 小説・東条英機と米内光政』(祥伝社)、『定年直後』(徳間書店)などがある。
<掲載誌最新号紹介>
2014年5・6月号Vol.17
5・6月号の特集は「実践! 自主責任経営」。
「自主責任経営」とは、“企業の経営者、責任者はもとより、社員の一人ひとりが自主的にそれぞれの責任を自覚して、意欲的に仕事に取り組む経営”のことであり、松下幸之助はこの考え方を非常に重視した。そしてこれを実現する制度として「事業部制」を取り入れるとともに、「社員稼業」という考え方を説いて社員個人個人に対しても自主責任経営を求めた。
本特集では、現在活躍する経営者の試行や実践をとおして自主責任経営の意義を探るとともに、松下幸之助の事業部制についても考察する。
そのほか、パナソニック会長・長榮周作氏がみずからを成長させてきた精神について語ったインタビューや、伊藤雅俊氏(セブン&アイ・ホールディングス名誉会長)、佐々木常夫氏(東レ経営研究所前社長)、宇治原史規氏(お笑い芸人)の3人が語る「松下幸之助と私」も、ぜひお読みいただきたい。