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歳をとっても記憶力は鍛えられる 作家・渡部昇一が実感した「老後に必要な学習法」

渡部昇一(作家)

2025年08月08日 公開

歳をとっても記憶力は鍛えられる 作家・渡部昇一が実感した「老後に必要な学習法」

歳をとるとはどういうことなのか――。ベストセラー作家の故・渡部昇一さんは著書『渡部昇一の快老論』の冒頭で「人生には、歳をとってみないとわからないことがある」と述べました。同書から、渡部さんが年齢を重ねてからの学習や知識について語った一節をご紹介します。

※本稿は、渡部昇一著『渡部昇一の快老論』(PHP文庫)より内容を一部抜粋・編集したものです

 

歳をとっても記憶力は衰えない

世の中の常識とは大いに異なる実感がある。それは、歳をとっても記憶力は衰えないということである。それどころか、鍛えることができるのだ。

今、私は英詩のいくつかを、すべて諳んじることができる。最近も、若い人たちの前でエドガー・アラン・ポーの「アナベル・リー(Annabel Lee)」の全文をすべて暗誦して、大いに驚かれた。これは6つのスタンザ(連)からなる珠玉の叙情詩である。

だが、その驚きももっともである。私も30代、40代、50代のころには、英詩全文の暗誦など自分には不可能なことだと思っていた。それができるようになったのは、おそらく、50代の半ばからラテン語を覚えることに取り組んだことが、記憶力を鍛えることにつながったからではないかと思う。その経緯はこうだ。

私が40代後半のころ、上智大学はサバティカルの休暇制度を取り入れた。6年間勤務すると1年間の長期有給休暇をもらえる制度である。週7日に1回の休息日を「サバス」というが、そこから「サバティカル」という言葉は来ている。上智大学では7年間ごとに1年間の休暇をもらえることになった。

その休暇を使って何をやろうか考えた。ラテン語を勉強したかったので、スペインに行って朝から晩までラテン語をやろうと計画を立てた。

計画を実行に移そうとしていたら、たまたま「お金を出すからエディンバラに行ってくれないか」というスポンサーが現われた。そのころちょうど英語学史を書いており、エディンバラの文献がなかったから、文献を探すためにスポンサーの申し出を受けることにした。その年は、エディンバラに行って、それなりの収穫があった。

それから7年ほど経って50代半ばになったときに、2回目のサバティカルをもらった。今度は、サバティカルを利用して中学以来の友人と家族で田舎回りをした。私の郷里の鶴岡のあたりは、おいしいものがたくさんある。5、6月ごろには、コダイ、コガレイなど海の幸がたくさんとれるし、山菜も出始める。秋になるとまた海の幸、山の幸が出てくる。

そんな郷里の美味を満喫したサバティカルは、とても楽しいものだった。しかし、そうこうしているうちに、ふと気づいた。7年前には「ラテン語をやろう」と思っていたのに、自分がこれまで何もしていなかったことに。

「なんたる堕落であろう。これが老化というものか」。私はそう思って、決意を新たにし、ラテン語の暗記を徹底的にやることを決めた。

大学までは電車で通っていたが、それからはタクシーで通うことにした。自宅から大学まで、タクシー料金は6千円ほどであった。6千円は高いが、その時間をラテン語の暗記に充てれば高いとはいえなくなる。

教え子たちは、英語を教えるときに家庭教師として1時間1万円ぐらいは貰っていた。私は、ラテン語を習うつもりで運転手に給料を払うことにした。6千円で済めば安いものだ。往復1万2千円は払えないので、行きだけタクシーに乗ってラテン語を暗記することにした。10分あたり千円だから、10分間ボケッとしていたら千円が無駄になる。そう思って、必死になって暗記した。

暗記するといっても、難しいやり方はしていない。覚えるべき部分をコピーして、その紙片を持ってタクシーに乗る。それを読みながら幾度か口の中で唱え、次に紙を見ないで口でいってみて、いえればいい、というくらいの軽いものである。

はじめはフランシス・ベーコンに出てくるラテン語の引用を暗記した。これはすぐに終わった。それからアングロサクソン法律に出てくるラテン語を覚えた。300ページくらいの本だが、ラテン語、英語、日本語で書かれているから、ラテン語の部分だけだと100ページくらいである。これも全部暗記した。 意外に早く暗記できて、暗記がだんだん速くなっていった。

 

時代が変わっても進化しない本物を学ぼう

自然科学は日進月歩である。逆にいうならば、それだけ未知の領域が多く、不完全な学問であるということを意味する。

それと比べた場合、たとえば詩歌などは、時代が進んで進化するというものではない。山上憶良と、万葉風の詩を讃えた斎藤茂吉を比べたときに、斎藤茂吉のほうが進化していると簡単にいえるものではない。あるいは、松尾芭蕉とその後の俳人とを比べてみて、芭蕉後の俳人のほうが芭蕉より進化したともいえない。西洋哲学の分野でも、ソクラテスやアリストテレスと比べて、サルトルやハイデッガーがどれほど進歩しているといえるだろうか。

時代が変わっても進化しないものこそ、本物であろう。自然科学は尊ぶべきものではあるが、進化する余地があるのだから、まだまだ本物とはいえない。ある学説を一心に学び、一生涯かけて取り組んでいたところ、ある日、天才がまったく違う学説を提示して、一夜にして常識が変わってしまうことも起こりうる。

科学の世界では、ニュートン以降はニュートン物理学ですべて説明できると考えられていた。ところが、アインシュタインが登場して考え方が大きく変わった。アインシュタインもいずれは否定されるかもしれない。今は、宇宙はビッグバンでできたと考えられているが、本当は違うかもしれない。

若いうちの切磋琢磨はともかく、歳をとってから自らの所見をすべて全否定されるのは、そうとう応えるに違いない。であれば、進化する余地があるものに寄りかかっているよりも、進化しない本物に寄りかかっているほうが、気持ちが落ち着くことは間違いない。

まだ進歩の余地のある世界に身を置くならば、その時代の考え方に全身全霊を傾けすぎないほうがいい。「変わる可能性がある」という考えを少し残しておいて、変わらない本物にたえず心を向けておくべきだろう。

変わらないものを知るには、古典を学ぶことである。読み継がれてきて、今も残っている古典には、昔から変わらないものが書かれている。ある程度の歳になったら、詩歌や人間論など不変の「本物」を学んだほうがいいというのは、そういうことからもいえると思う。

歳をとってくると、そういった古典のほうが読んでいておもしろくなる。また、年の功で古典を深く理解できるようになる。

 

老人の話が役に立つ理由

歳をとると、肉体的条件は人によってかなりの違いが出てくるものである。身体はあまり衰えないで脳が衰えていく人もいる。逆に、身体は随分衰えてきたけれども、脳はしっかりしている人もいる。身体も脳も両方衰えないのが、いちばんいいのだろうが、歳をとって両方とも衰えないというのは、なかなか難しいことであろう。

その意味からも、もちろん私の経験は、けっして普遍的なものとはいえない。しかし、散歩ができなくなったことも、若いころは楽しく読めた小説がおもしろくなくなったことも、暗記力や語学力が増強されたことも──すべて私自身が実際に経験したことであることは、確かな事実である。

そういうことを知ることは、まだ86歳にならない人には、なにがしかの功徳になる部分もあるだろうと思う。

少なくとも、私にとっての記憶力や語学力のように、歳を重ねても伸びる可能性がある能力があることを知ることは、多くの人にとっての励みになるであろう。

そして、私が歩けなくなったことだって、ある人にとっては福音ではなかろうか。若いころから散歩という習慣を持たずに、老境に至って歩けなくなる人がいるとすれば、「ああ、こんなことなら若いころからもっと歩いていればよかった」と悔恨の念に駆られてしまうかもしれないからである。

あれこれと憂い悔やみ、わが身を呪うことほど、自分自身の身体を苛むものはない。けっしてそんな悔恨に溺れてはいけない。その意味で、散歩を日課としていた者でさえ歩けなくなると知れば、「若いころからもっと歩いていれば」という後悔は随分軽減されるかもしれない。

また、歳をとってから読書がおもしろくなくなった場合、もっぱら特定のジャンルの本ばかりを読んできた人であれば、自分の感受性が衰えたのだと思って落ち込んでしまう可能性もある。しかし、それは「衰え」の問題ではなく、別の理由である可能性があるのである。

たまたま私がそのようなことに思い当たったのは、若いころから「興奮して身震いするほどに没入できるかどうか」という基準で、いわば知的オルガスムスを求めるかのように様々な書を乱読してきたからであろう。自分がおもしろいかどうかを一つの絶対的基準として読書を愛好してきた者の率直な感想には、ある程度の説得力があるのではないか。

私は、もし誰かから、「もう一度、若くなりたいですか」と聞かれることがあったら、「若くなりたくはありません」と答えたい。

自分の一生を振り返ると、日本に生まれたことから始まり、いろいろな偶然の重なりで、きわめて幸運な男であった。私はもう、この人生で十分に結構である。そして、そう思えることは、とても幸せなことだと思う。

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