老後の品性を高めるために、どのようなことを習慣にすべきか。ベストセラー作家の故・渡部昇一さんは著書『渡部昇一の快老論』にて、定年後の生活を良いものにするために「1日15分でも何かをやったほうがいい」と語っています。本稿では、同書より老後の修養にまつわる一節を紹介します。
※本稿は、渡部昇一著『渡部昇一の快老論』(PHP文庫)より内容を一部抜粋・編集したものです
老後こそ「機械的な仕事」を心がけよ
老後は悠々自適などといわれる。確かに、思うままに時間を使えることになる人が多いであろう。
勤めていた人なら、毎日ほぼ決まった時間に出社して、一定時間の勤務をこなしていたはずだが、それもなくなる。家を切り盛りしていた主婦でも、夫が働いていたり子供がいたりすれば、夫や子供のタイムスケジュールに合わせる生活を多かれ少なかれ送ってきたはずだが、夫が退職し、子供たちも独立していけば、そのような部分もある程度はゆるくなる。
だが、そうであるからこそ、私は老後の充実のために、ぜひとも心がけておくべきことがあると思う。それは、「機械的(メカニカル)な仕事の方法こそが、決定的に重要である」ということである。
私がこのことについて体系的に書いたのは、『知的生活の方法』のあとに講談社現代新書から出した『続 知的生活の方法』においてであった。
ここで機械的というのは、毎日、決まった時間を割いて仕事に取り組むというほどの意味である。生産力の高い作家たち──多作であったり、数々の長篇を残したりするような作家たち──は、多くの場合、一日のうちで執筆に充てる時間を決め、機械的といってもいいほどの勤勉さで執筆に励んでいるものである。
この書において私は、毎午後、機械的に働いて大量の物語詩や小説や歴史書を書いたウォルター・スコットや、気象庁での仕事を終えてから毎日、19時のニュースを聞き終わって後、23時までを小説の執筆に充てていた新田次郎の例を紹介しつつ、こう書いた。
〈われわれは、文学作品であれ、絵画であれ、音楽であれ、「芸術」といわれる分野のものは、インスピレーションによってできあがると思いがちである。もちろんインスピレーションがなくて芸術作品が生まれるわけはないが、「作品」と名のつくものは、その大部分は機械的な作業であることを悟らない人は、知的生産には無縁にとどまるであろう〉
〈人は、機械的に働くという習慣──勉強の習慣──がつくと、つぎからつぎへと、最初は考えることもできなかった大作を仕上げることができるようになるものらしい〉(以上、『続 知的生活の方法』)
このような習慣のありなしは、間違いなく、老年の生活の充実を大きく左右するように思う。もちろん、大作家ではないのだから、何時間も机にかじりついていなくてもいいかもしれない。しかし、毎日同じ時間を決めて、機械的に何らかの知的作業、つまり勉強をするという習慣を持っているかどうかで、その人の生活は画然と変わるはずなのである。
定年退職後を毎日日曜日にするのはよくない。1日15分でも、何かをやったほうがいい。まず15分やってみると、それがきっかけとなって、けっこう長い時間やり続けてしまうことがあるものである。
佐藤一斎の『言志晩録』の中に、「少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。壮にして学べば、則ち老いて衰えず。老いて学べば、則ち死して朽ちず」という有名な言葉がある。
最初の「少にして学べば、則ち壮にして為す有り」は、少(少年)のときに学べば、壮(壮年)になったときに活躍する場が広がるということだ。これはいわずもがなのことであろう。最後の「老いて学べば、則ち死して朽ちず」は、死んだあとの自分に対する評価だから、あまり気にする必要はない。
老年の幸せのことを考えたら、最も重要なのが真ん中の「壮にして学べば、則ち老いて衰えず」である。文字通り、「壮年のときに学んでいれば、老年になっても衰えない」という意味だが、これがなかなか難しい。
大学教授を務めた人でも、定年退職後に勉強を続けていない人が案外いる。そういう人は、早く衰えてしまう人が多い。文科系の教員の中には、毎年同じノートで講義している人もいる。そうやって楽をしてきた教員は、定年後にツケが確実に回ってくるようである。
一方、優秀な編集者で、定年になってから評論家などに転身して活躍している人もいる。堤尭氏や半藤一利氏などはその筆頭に挙げられるだろう。このような人たちは、現役時代に編集者としても大活躍をしている。
多忙をきわめていたはずだが、しかし、それでも仕事とは別に、日ごろから自分の興味関心に基づいて勉強を続けていたに違いない。ジャーナリストでも、社の名刺がなくなってからも活躍できるのは、自分の興味ある分野を深掘りして、広範な人間関係を築いてきた人であろう。
この差は、とても大きい。もし本書を読んでいるあなたが「壮」であるならば、しっかりと肝に銘じて「機械的に勉強する」習慣を身につけるべきである。
もっとも、「自分は壮のときに、勉強を積み重ねてこなかった」という人も、別に焦ることはない。大作家や大評論家になろうというならともかく、自らの老年期を充実させるためには遅すぎることなどない。
今、このときが、いちばん早いタイミングなのだから、思い悩むことなく今から始めればよい。
漫然とやってはいけない
そのような勉強をするときに重要なことは、「漫然としない」ことである。漫然と目的を絞らずにやって失敗した事例を、私は『続 知的生活の方法』の中で、自分自身の卒業論文と修士論文を挙げながら紹介した。
もう、60年以上も昔のことになるが、私は大学の卒業論文のテーマにラフカディオ・ハーン(小泉八雲)を選んだ。当時はまだ彼に関する本や論文も多くは出ていなかったから、それらをすべて読んで大論文を書いてやろうと考えた。思えば、いかにも若者らしい野心である。
現実に、2万ページくらいはハーン関係のものを読んだ。そうするうちに論文の構想が浮かび上がってくるに違いないと考えたのだが、予想に反して、アイデアはメモの範疇を超えず、論文としての構想はまとまってこなかった。
しかし、締切りだけは迫ってくる。そこでやむなく、締切りの1か月半前から第一章を書き出した。
すると驚くべきことに、第一章に着手したとたん、新しく調べなければならないことが次から次へと具体的に出てきてしまったのである。むしろ、資料を読んでいた折に取ったメモは、使い物にならないことが多かった。結局、卒論は締切りに間に合わず、論旨も一貫せず、まったく不満足なものに終わった。
この経験を通して学んだことは、「まず書き始めることが大切」ということであった。漫然と目的を絞らずに乱読しても、あまり役には立たないのである。ある程度の構想を立てたうえで、実際に第一章を書き始めると、調べなければならないことが突如として次々と目に見えるように現われてくる。
疑問が生じたらチェックし、最初の構想が間違いだとわかったら書き直す。しかし、それでよいのだ。そのようにして毎日、何時間か機械的に取り組まないと、まともな論文など完成しないのである。
卒論の反省を生かし、修士論文はそのように取り組んだから、もちろんまだまだ幼稚なものではあったが、自分自身としてはある程度満足できるものとなった。
もちろん、これは「論文」のことであって、すべてに適用できるものではないだろう。だが、仕事のコツとして共通する部分は、間違いなくあると思う。
つまり、何の目的意識もなく漫然と雑多なものを読むだけでは、結局はうたかたのように消えてしまって自分の中に積み重なっていくものは何もない、ということになりかねないのである。やがて、果たして自分が何を読んできたかさえ、定かではなくなってしまいかねない。
ところが、何らかの目的意識に基づいて、実際にそのテーマに寄り添いながら読んでいけば、間違いなく次々と目前に課題は現われ、次に何を読むべきかも見えてくるのである。
そのときにお奨めしたいのは、私がこれまで『知的生活の方法』などで繰り返し書いてきたように、自分の本を買って、重要だと思われる部分に線を引き、メモを記入し、それを自分の蔵書としていく方法である。
こうしておけば、何かの機会に、「あの本ではどうだったか」と疑問が湧いたとき、書棚に行ってページを繰るだけで、自分が考え、感じていたことが生き生きとよみがえってくる。自分自身による、自分自身のための、かけがえのない思考の蓄積になるのである。
そのような本を揃えていけば、それは自分にとって最良の「書庫」となり、その場所が自分にとって最高に居心地のよい「書斎」になる。自分自身の思考の蓄積が、目に見えるかたちですぐ手の届く場所にあることは、便利なことこのうえないし、成果も一望できて気分もよい。自分の関心を中心に据えて書庫を充実させていけば、六畳一間、八畳一間でも十分に威力を発揮するのである。
もちろん、早くからそういう習慣を続けていれば素晴らしいが、今から始めても遅すぎることはない。








