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仲代達矢が語る日本映画黄金時代

春日太一(映画史・時代劇研究家)

2013年01月21日 公開 2020年08月19日 更新

《PHP新書『仲代達矢が語る日本映画黄金時代』より》
写真:乾芳江

――「仲代達矢」とは、一体どんな役者なのでしょうか?

実は、その答えとなる言葉が、取材前の筆者には浮かばなかったのだ。よく知っているようで、実際のところ「役者・仲代達矢」のことは、ほとんど何も知らない。そう思い始めたら、仲代さんのことが知りたくて仕方なくなってしまった。

そこで仲代さんの研究を独自に進めているうちに、あることに気づいた。それは、彼が日本映画のありとあらゆる名匠・名優と、しかもほとんどが重要な役どころで撮影現場を共にしてきているということだ。つまり、「仲代達矢」は役者であると共に、映画史の生き証人でもあるのだ。その大きな瞳に、名匠・名優の姿はどう映っていたのだろう。これはぜひとも実際にお会いして、お話をうかがわなければ……。いてもたってもいられなくなっていた。

そんな矢先、PHP研究所の編集者から「映画スターを題材に新書を書きませんか」という話をいただいた。筆者は即答した。「ならば、仲代さんで、ぜひ」

幸いなことに、仲代さんには取材と書籍化を快諾していただけた。そして、2011年6月から全10回、合計15時間弱、心ゆくまでお話をうかがうことができた。

ただ、最初の取材時は緊張のしっ放しだった。申し込んでみたのはいいものの、改めて考えてみると、相手はあの「仲代達矢」である。45歳も下のこの若輩者が、どう立ち向かえばいいのか……。取材日が決定してから当日まで、足が震え続けた。当日に至っては、緊張のあまり、現場につくまでにヘトへトになってしまっていた。

お話をうかがう無名塾の広い吹き抜けの稽古場は静寂の空間で、ピンとした緊張感が張り詰めていた。そして、扉の向こう側から仲代さんが現れ、稽古場の中央で2人きりで対峙した。大きかった。実際にも大きな方ではあるが、その存在感の迫力にひたすら庄倒されてしまったのだ。それでもなんとか勇気を振り絞り、質問を開始した。

するとどうだろう。仲代さんは柔和な笑顔を湛えながら、とてもざっくばらんにお話しをされるのだ。張り詰めた稽古場の空気は、気づけば穏やかなものになっていた。いつしか筆者の緊張感も解け、スムーズに次々と質問を投げかけることができるようになっていく。

それからはとにかく、驚きと興奮の連続であった。何より感激したのは、その記憶力だ。こちらの用意してきたあらゆる質問に対し、仲代さんは事前の準備もなしに全てその場で完璧に答えている。

しかも、時に当意即妙の一人芝居を交えて当時の様子を克明に再現しながら、である。言葉の彼方から、活気ある撮影所の光景が浮かんでくるような気がした。

「これが超一流の役者の話術、表現力なのか」と慄然とした。筆者は「仲代達矢」というインテリジェンスを媒介に、60年間の戦後日本映画の最前線を追体験することができたのだ。

取材を通して見えてきた日本映画黄金期の光景、さらにその向こう側にそびえ立つ「役者・仲代達矢」の実像……どうすればこれを読者に最も分かりやすく伝えられるのだろう。仲代さんの一人語りに筆者が所々で解説を入れていくという本書の構成は、そのことを筆者なりに考え抜いた結果によるものである。

これならば、仲代さんの言葉とそこに込められた想い、そして筆者が取材時に感じた「今そこにいる仲代達矢」の凄みと重みへの感動を、最もストレートに伝えられると思ったからだ。

本音に綴られる仲代さんの言葉の1つひとつがただの昔話ではなく、現代への問題提起、さらには未来を切り開くためのヒントとして読者の皆様に受け止めていただけたら、筆者としてはこの上ない幸いである。

 

仲代達矢が語る「黒澤明との仕事」

「世界のクロサワ」として知られる巨匠・黒澤明。仲代達矢のフィルモグラフィを語る際、彼との仕事は絶対に外せないだろう1960年代、時代劇『用心棒』『椿三十郎』では三船敏郎の相手役を、サスペンス映画『天国と地獄』では三船扮する会社社長の息子を誘拐した犯人を執拗に追う刑事役に扮している。また、80年代には『影武者』『乱』で主役を張っている。
 

屈辱の『七人の侍』

仲代が初めて経験した黒澤の現場は、1954年の東宝作品『七人の侍』だった。黒澤明監督の名声を不動のものにした超大作時代劇である。

私は俳優座養成所の2年生の時、まだ20歳ぐらいでしたが、『七人の侍』のオーディションを受けまして。ほんの数秒のカットでしたが、エキストラで出演しているんです。物語の序盤で、百姓たちが野盗から村を守る傭兵を雇うため、街中をスカウトして回るんですが、その目に留まる浪人の役でした。

それで、ヒゲも初めてつけて、ちょんまげも初めてつけて、刀も初めて差して。そうしたら黒澤監督が「君が先頭になって歩け」と。まあ私が一番体が大きかったからでしょう。

ところが、撮影が始まると「何だ、その歩き方は!」と黒澤監督に怒鳴られまして。何度やってもNGになるんです。そりゃそうですよね。新劇じゃそんなもの教えてくれませんし、そもそも着物を着たのも初めてですから。撮影が朝9時開始でそのシーンの撮影が終わったのが午後の3時頃でした。その間、何百人もの役者やスタッフを待たせて、ひたすら私が歩くシーンを何度も撮り直すんです。まあ、その当時の映画界は贅沢なもんで、エキストラ1人にそれだけ時間をかけてくれたんです。

それで、ともかく役者は歩き方だと、とくに時代劇の歩き方はこういうもんだと徹底的にそこで意識しました。だからといって、すぐにできたってわけじゃないんですけど。

ただ、当時としては屈辱的でした。エキストラだから替えもいるのに、ずっと私だけに何度もダメ出しして撮り続けるわけですから。三船さん以下、みんなを待たせてね。「なんだ、あいつは」とか周囲から罵詈雑言は聞こえますし。「あいつにはメシを食わせるな」というようなことを言われて。「あ、俺は映画に向いてない。まして時代劇なんてダメだ」と思うほど屈辱的でした。

『用心棒』への出演

仲代が黒澤映画で初めて本格的な大役を得たのは、1961年の時代劇映画『用心棒』だった。59年からスタートした小林正樹監督の超大作『人間の條件』で一躍トップスターの1人になった仲代に、黒澤が目をつけたのだ。

『人間の條件』という映画は半年かけて1・2部を作って、その後は3・4部の準備のために半年休みがあったんです。その時に『用心棒』の話が来ました。

その頃は仲代達矢って役者も世間に少し認められていました。小林さんと黒澤さんは仲が良くて、「『人間の條件』の次の部に入る準備期間の間、仲代を貸してくれないか」と申し出てこられたそうです。

私はそれを聞いた時に、あの『七人の侍』の屈辱感が残っているから、お断りしたんです。そしたら、断れば断るほど、黒澤さんが諦めないんです。それで、小林さんにも相談したら「出たらいいじゃないか」と。「『人間の條件』の〈梶〉と同じような役だったら困るけど、全然違うキャラクターだから出なさいよ」って。〈梶〉は正義漢で、ヒロイックなヒューマニストですが、『用心棒』の〈卯之助〉というヤクザは冷酷な悪役でしたから。それでも私は逃げ回りました。

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