人生とは「自分自身を征服する歴史」である
人は生涯にわたって成長を続けるものである。だから、レジリエンスのある人は、今の人生を「自分自身を征服する歴史」と見ているのではないかと私は思う。与えられたそれぞれの環境の中で、頑張って生きてきた。それは振り返ってみれば、戦いの歴史であり、同時に征服の歴史でもある。
ヒギンズの調査した人たちの多くが、強調して述べていたことである。
「私は人生の早い時期に学習基準に達しなかった。特に後期思春期と早期成人期に。しかし今は要求水準に達している。何人かは入院をしているし、入院しなくても子どもの時期に爆発したトラウマの影響で悲観論者と診断された。
私はよろめきながらも、自己と他者の新しい意味に向かう。長い人生の旅を経て、混乱しながらも最終的に人生の意味にたどり着く。オイディプスは最後に家への道を見つけた」
先の、妻が病気になって入院した夫の話である。夫は今、妻に「俺がそばにいるから」と言えなくてもしかたない。そう言えない自分を、レジリエンスのない人と見なさなくてもよい。今の自分は最高に機能しているレベルに達していない。だから自分はもっともっと素晴らしい自分になっていく。
今、神経症的傾向の強い人でも、自分の未来を悲観することはない。最高の自分は今の自分ではない。この夫も、今、そう言えなくてもよい。中学で無表情になったという夫には、辛い幼少期があったのだろう。パニック症候群になる夫は、過酷な運命の中で戦って生きてきたに違いない。
私たちは過去の集積である。今までの自分をすべて包含して「今の自分」がある。そしてその先に最高に機能する自分がある。そうなるように生きてきたのである。蒔いたように花は咲く。悩んでいる人は、どこかで今の悩みの種を蒔いたのだ。今、悩んでいる人はそれを認めることで、成長して行ける。
それを認めないと、成長の機会を逃す。過酷な運命に翻弄される。ヒギンズの著作を読んでいる時に、Divorced selfという言葉に出会った。
そこでの意味は、余りにも深く傷ついたので、基本的な自分が自分から分離してしまったということであるようだ。「自我の統合性」を失ったという意味のようである。それだけ過酷な人生を歩んできたということであろう。
レジリエンスのある人は、自分の現在の命を、その人自身の征服の歴史と見ている。打ちのめされた子ども時代と取り組み、仲良くなり、最後には抱きかかえる歴史として見ている。
今この時は幸せになるための経過である
ある、レジリエンスのある人の話である。こうして世界一苦しんでいる自分はすごい。この自分にしか耐えられない辛さを生きている者からすれば、たった一本の注射で解消するような辛さなど、辛さのうちに入らない。
「こうして世界一苦しんでいる自分はすごい」。そう思えるのが逆境に強い人である。私はある時日本精神衛生学会の大会の長を務めて、そこにハーヴァード大学教授のエレン・ランガーさんを呼んで講演をしてもらった。彼女は次のような話をした。
「どんな行動にも意味があると考えられます。ある人が、その人自身にとってマイナスになると思われる行動をしている時こそ、その行動の本当の意図を考えてみてください。そうすれば、その行動に対し別の解釈ができて、その人に対しマイナスの気持ち、否定的な気持ちというのが消えていくように思います」
誰もが、自分の人生を、意味のある充実したものにしたいと望み、さまざまな行動をしている。
だから、今を最終点の幸せにたどりつくまでの経過ととらえれば、どんな行動にも意味があることがわかる。これが逆境に強い人、レジリエンスのある人の考え方である。
そう思えば逆境から立ち直る行動を続けられる。私たちは、大きなことで幸せを逃がしていると思っている。しかし、本当は逆境の時の小さいことで幸運を逃がしている。
もう一度いう。
逆境に強い人、レジリエンスのある人はどんな行動にも意味があると思っている。
今はつらい。しかし今は幸せに至る経過である。
【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。