エクスタシーを感じたブーイングの嵐
そんな状況でやったサムライ・シロー戦だから、俺はとてつもないつまらなさを感じたよ。このままじゃ、ムタは見かけだけの出落ちのキャラクターになってしまう。せっかくWCWでトップを張ってバリューをつけたのに、ただ消耗させるだけじゃもったいないよな。
だから、ムタをアメリカ時代とも違う、日本のリングでもオーバーするような武藤敬司とはまったく別のキャラクターのレスラーに仕立て上げる必要性を感じたんだ。
もう次の試合は1週間後の9月14日に、広島サンプラザで馳浩とやるというのが決まっていたからね。俺はサムライ・シロー戦の反省を踏まえてムタの新しいイメージを固め、馳との試合に臨んだよ。
それが当日は、いい方向に出たのかな。試合はアメリカのグレート・ムタや日本の武藤敬司のように、じっくりとしたレスリングで開始した。その後、途中で馳が張り手を連発してきたシーンがあったんだ。
自分ではわからなかったけど、この時に顔のペイントがかなり剥がれてね。この当時のペイントは非常にデリケートで、すぐに剥がれちまうような代物だったからな。
その瞬間から、ムタのヒールファイトが始まった。鉄柱攻撃で馳が流血したら、場内の空気もガラリと変わったよ。試合開始当初はむしろ馳の方がヒール的な立場だったかもしれないけど、この流血で立場が逆転したんだ。
流血しながらもがんばる姿を見せていた馳は客からベビーフェースとして認識されるようになったし、場内の声援もあいつに集中したよ。
一方のムタには、ブーイングの嵐だった。ただ、これはちょっとしたエクスタシーでもあるんだ。アメリカでもブーイングを浴びたりしたけど、それに近いものを感じたよな。自分で引き起こしたものだから、これは気持ちいいよ。
試合の結果はリング下から持ち出した担架でレフェリーのタイガー服部さんを殴り、ムタの反則負けだった。それでもムタは暴れ続けて、最後は馳を担架に乗せた状態でムーンサルトプレスもやったよ。
馳浩との流血戦で見えたムタの方向性
この頃は、その他にもリング周りにはいろんな物があったんだ。後にムタはもっと多種多様な凶器を使うことになるけど、ヒールをやる上では整った環境だったと言えるよな。
目についた物は、何でも凶器として使用する。すべて自然の成り行きで、その都度ムタがチョイスするというわけだ。
よく、この試合から日本でのムタの方向性が決まったと言われている。確かに、その通りかもしれない。ただ、これはこれで厄介なことだったよ。武藤敬司とグレート・ムタのキャラクターをきっちりと分けたことで、2人のレスラーを同時に存在させなきゃいけなくなってしまったからな。
俺の体はひとつなのに、2人分のレスラーをやらなきゃいけないわけだ。ある意味、俺にとっては面倒くさいこと極まりないよ。
ただ、その2つのキャラクターを使い分けられたからこそ、俺もこの年齢になるまでプロレスラーとして生き残れたのかもしれない。だから、この馳との試合で日本におけるムタの方向性を確立できたことは、俺のプロレス人生においても大きな出来事だったと思うよ。
そういう意味では、馳に感謝だな。よくわからないキャラクターのサムライ・シローよりも、ベビーフェースになりきれる馳の方が試合がやりやすかったのも確かだし、感謝する部分は大きいよ。
最初の頃のムタを振り返ると、入場はいいんだよ。ムタが出てくれば、盛り上がるんだ。ただ、試合になると盛り上がらないまま終わるというのを実感していたからね。というか、自分の中ではそういうイメージが強かったんだ。
でも、俺自身が迷っている反面、プロレスファンの間でムタは認知されていったんだろうな。おそらく人気は上がっていったんだろう、きっと。そうじゃなきゃ新日本だって、またムタを出そうなんてことにはならないよ。
だから、ムタは生き残ったとも言える。アメリカで生まれたキャラクターだけど、今のグレート・ムタは新日本プロレス育ちと言っていいからね。新日本で唯一生き残ったギミックレスラーがムタという自負が俺にはあるよ。だからこそ、猪木さんとも試合ができたんだろうしね。