「不安になりやすい日本人」が問題の解決を遅らせる
2022年12月07日 公開 2024年12月16日 更新
多くの日本人が抱えている、病気や老後への不安。いざという時にパニックに陥らないようにする為には、日ごろから不安と向き合い、解決策を考えることが重要です。精神科医の和田秀樹さんが解説します。
※本稿は、和田秀樹著『50歳からの「脳のトリセツ」 定年後が楽しくなる!老いない習慣』(PHPビジネス新書)から一部を抜粋し、編集したものです。
がん検診でパニックになる人の誤った選択
不安という感情そのものは、悪いものではありません。不安は本来、この先に起こりうる悪い事態を回避するためのものです。前頭葉が働いていれば、リスクを予測し、回避策を考えることができます。
どのくらいの確率で、どのような事態が起こるか。何をすれば回避できるか。できなければどうリカバーするか。それでも無理ならプランB、プランCで対応を...というように、前頭葉が働けば働くほど、多様な対策を用意できます。
ところが、日本人の不安は、対策までたどり着かないことが多いのです。コントロールが働かず、怖いという感情だけが先走る、つまりパニックになるのです。
不安をコントロールできていれば「これもできる。こういうやり方もある」と複数の対策を考えられますが、パニックになっているときは、1つの答えしか出せません。
たとえば、「もうダメだ」と悲観的になる。あるいは、「あいつが悪いのだ」と誰かへの恨みに転嫁する。はたまた「考えたくない」と目を背けてしまうこともあります。
がん検診の結果に翻弄される人などはその好例です。がん検診の目的は、「早期発見」にあります。進行する前に見つけて、すぐ治療して、命を守るためのものです。
ところが、早く見つけるためにではなく、「がんの不安を払拭するために」受診する人が少なからずいるのです。このタイプの人は、がんではないことを確かめたいという一心なので、がんが見つかるとパニックになります。
ここでの適切な対応は、いい病院を見つけて、きちんと治療を受けることです。さらにいいのは、どこの病院が自分に合っているかといった情報を検診の前に調べておくことです。
そうした備えをしていないと、さらに間違った判断に陥りがちです。よく考えもせずに、目についた病院を治療先に選んで、意に沿わない治療方針で心身ともに疲弊する、というのが典型的なパターンです。
不安と向き合うか、不安に飲まれるかで、結末は天と地ほども変わるのです。
怖がりながらソリューションを考えない矛盾
不安との適切な向き合い方は、不安があるからこそソリューションを考えることです。回避策があれば予防でき、解決策があれば、不安が的中しても対応できます。
ところが日本人は、怖がっている割には、いや、怖がりすぎているからか、ソリューションを考えられないでいます。予防策まではなんとか考えられても、事が起きたときの対応策となると、いよいよ忌避する傾向が強まります。
たとえば、認知症になることを怖がって、脳トレに励む方は多くいます。つまり予防策らしきことはしているわけです。しかし、実際に認知症になったときの対応まで考えている人はめったにいません。
脳トレをしても、認知症になるときはなります。不安を抱いたのなら、最悪の事態まで視野に入れてソリューションを考えるべきです。
介護を誰に頼むか。どの病院に通うか。どのような公的サービスを受けられるか。どの程度の費用がかかるのか。どんな施設があるのか。どの段階で施設を検討するか。そして最終的にどの施設を選ぶのか。
これらのことを考え、複数の選択肢を用意したうえで、最善と思われる方向性を定めておけば、いざというときのダメージは最小限に抑えられます。
「そんなことまで考えたくない」という気持ちが湧いてくるとしたら、それだけ怯えが強いということです。
ネガティブな未来を予測することへの忌避は、個人に限らず、企業や公的機関など、組織単位でも起こります。ときには、組織のほうが極端な対応をしています。
たとえば学校ではよく「いじめゼロを目指す」といった目標が掲げられます。しかしこの目標は現実的ではありません。集団のあるところ、いじめは起こりえます。
しかし不安に駆られているから、「起こる前提」に立てず、したがって対応策は考えず、そのかわりに「ニックネームはいじめのきっかけになるから禁止」などといった、極端で的外れな予防策を掲げてしまうのです。
それよりも、いじめが起きたときにどうするかを子どもに教えておく。つまり、スクールカウンセラーの使い方とか、いじめられたら休んでも評価が下がらないとか、保健室登校という手もあるということなどを教えておけば、心の後遺症も自殺もかなりの確率で防げるはずです。
そんなことは起きない、起きると思いたくない、という過剰な怯えがいかに悲惨な結果を招くか、日本人はそろそろ気づいていいころです。