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「手勢15名からの逆転完勝」 平治の乱で平清盛が見せた“完璧な合戦”

海上知明(NPO法人孫子経営塾理事)

2019年05月09日 公開 2024年12月16日 更新


 

清盛の上洛を許した藤原信頼と源義朝の不協和音

平安京における平家(平氏の中の特定の一族なので平家という表現が正しい)の根拠地・六波羅はなかば要塞化され、多くの郎党が住んでいた。

ここに紀州と一部西国の兵を率いて清盛は戻ったのだから、クラウゼヴィッツが言う「決定的地点にできるだけ多くの軍隊を使用する」の観点から、清盛の平安京における優位は確立されている。

さらに、戦略的に「決定的な地点に有利な戦闘力を巧みに投入する」「将士がかかる決定的地点を正しく判定する」ことが模索され出す。

軍事的に見て、反乱軍の失敗は迎撃もせず、伏兵も置かず、清盛を簡単に上洛させてしまったことにある。本来は平安京にあって六波羅をも監視下に置き、しかも内裏を占拠している反乱軍は有利な形での迎撃が可能であった。信頼だけでなく義朝も軍事的に無能であることは、この一件からも判断できる。

反乱軍側が清盛の上洛に対して何の手も打たず、静観した背景にはもう一つの理由があった。

信頼は、政治的主導権確立のために河内源氏が唯一の武力の保持者になることを内心恐れ出していた。姻戚関係等もあった清盛が信頼に恭順するならば、むしろ清盛を生かして源平の勢力を拮抗させ、信頼自らはバランサーになろうと考え出したのである。

逆に義朝は、自らが軍事力の唯一の保持者となるために清盛を完全に抹殺したかった。この叛乱側の不協和音は清盛に「時」を与えることになる。義朝は戦力増強もしていない。わずかに悪源太義平を呼び寄せただけである。

これはまだ関東において義朝の勢力が小さかったからでもあるだろう。

クラウゼヴィッツは「防禦は、待ち受けと積極的行動という両ふたつの異質的な部分から成る」(『戦争論』中、岩波文庫)と指摘しているが、六波羅に入った清盛は、待ち受けでは完全に優位な状況に入った。

段階は「防禦は攻撃よりも強力な戦争形式であり、その旨とするところは敵をいっそう確実に征服するところにある」に移行していく。

 

政治的正統性を確立してから作戦戦略へ

清盛の平安京帰還の情報が伝わると、二条天皇の側近の中に信頼から離反する動きが見え始める。また、叛乱に不満を高めていた人達の中に清盛につこうとする動きが見え始める。

清盛の上洛に最初に反応した内大臣藤原公教が藤原経宗・藤原惟方ら二条側近派に近づき、信頼からの離反を勧める。政治的勝利の可能性を見てとった清盛は政治的正統性を確立し、叛乱軍に対して政治的に勝利した状態にすることを考える。

ここで諜報が事の正否を決定するほどの重要性を占めてくる。天皇奪還のために内通役となったのは、惟方の妻の兄弟である藤原尹明であった。

『孫子』に言う「先知なる者は、鬼神に取る可からず、事に象(かたど)る可からず、度に験す可からず。必ず人に取りて、敵の情を知る者なり」で、清盛は確実な情報から次の一手を考えたのである。

清盛は信頼を油断させるために、従者であることを示す「名簿」を提出した。水面下での諜報とは裏腹に味方になることを示したのである。

『孫子』は言う、「兵は詭道なり。故に能にして之に不能を示し、用いて之に用いざるを示す」「利にして之を誘い、乱して之を取る」「卑うして之を驕らしむ」。これは他の多くの兵法書でも、「文伐十二節( 武韜『六韜』)」「剛は必ず辞を以て服す( 図国『呉子』)」と様々に強調されている。

清盛は藤原経宗・惟方と通じて天皇と中宮を内裏から脱出させることにしていた。25日夜、二条大宮に火を放ち注意を引き付けているうちに、経宗と惟方は後白河上皇と女装させた二条天皇を内裏から脱出させた。

二条天皇は六波羅に迎えられ、後白河上皇は美福門院、上西門院とともに仁和寺に入った。油断しきった不意を突くこの作戦は、『孫子』の「其の備え無きを攻め、其の意おもわざるに出づ。此兵家の勝にして、先ず伝う可からざるなり」と見ることができる。

天皇奪還の効果は限りないものがあった。戦略的に見ても「先ず其の愛する所を奪わば、則ち聴かん」で、敵を軍事的に操縦することが可能になる。この後の戦いはすべて清盛主導で遂行することが可能になった。

心理的にも政治的にも清盛は「先に戦地に処りて、敵を待つ者は佚いつし、後れて戦地に処りて、戦いに趨く者は労す」立場を手にしたのである。

叛乱側の最大の力の根源たる天皇奪還は「敵に取るの利は貨なり」であり、「戦わずして」政治的に勝利を最初に得たことになる。「敵に勝つ者は、形無きに勝つ。上戦は与に戦う無し」と『六韜』の「龍韜」でも述べられている。

しかし、この政治的正統性の確立のもたらした意味は、たとえ軍事的に敗北したとしても、政治的に勝利した立場を与え続けるほどに大きい。官軍の立場を奪い、叛乱側の「謀を伐つ」ことにより、信頼も義朝も無目的なままにたんに追討を待つ身となってしまった。

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戦略家としても戦術家としても一流だった清盛

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