1. PHPオンライン
  2. くらし
  3. 「手勢15名からの逆転完勝」 平治の乱で平清盛が見せた“完璧な合戦”

くらし

「手勢15名からの逆転完勝」 平治の乱で平清盛が見せた“完璧な合戦”

海上知明(NPO法人孫子経営塾理事)

2019年05月09日 公開 2020年11月24日 更新

 

戦略家としても戦術家としても一流だった清盛

こうして清盛は、政治的に「勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め」の状態を確立した。あとは軍事的に敗北させるという仕上げである。

とはいえ政治的視点では「すでに敗るる者に勝てばなり」の状態にあるから、どのみち敗北はない。今度は、有利な立場を利用してどれぐらい完璧に叛乱を鎮圧するかに清盛の手腕が発揮される番である。

ここから先が戦略分野の担当するところとなる。クラウゼヴィッツは極限点に至った段階で「攻撃者の蒙った一般的な損失に因る結果にすぎないにせよ――行動と会戦の決意とは、まさに防禦者の側にある」と述べているが、二条天皇の行幸こそが河内源氏軍にとっての政治的極限点であり、いまだ軍事的には防禦者であった清盛が攻勢に転じるタイミングでもあった。

信頼だけでなく河内源氏もまた朝敵となって意気消沈している。このまま放っておけば立ち枯れするだけであるため絶望がある段階に至ったときに考えが切り替わり、心機一転して逃亡して関東で再度叛乱を起こす可能性もある。

関東は独立機運が高いから、関東の叛乱となると事は大規模になる。このため清盛は軍事的行動を起こし河内源氏を殲せん滅めつする最高のタイミングを天皇を奪還されて士気低下したこの段階と踏んでいた。

清盛が天皇の六波羅遷幸を平安京中に宣伝すると、関白基実以下、公卿のほとんどが六波羅に集まってくる。

『平治物語』によると、清盛はこれを「家門の繁昌、弓箭の面目」と言って喜んだという。信頼と姻戚関係の基実も受け入れたことは清盛の度量の広さを物語る。

清盛は、圧倒的劣勢から始まって戦闘開始前に準備万端に整えた。

『孫子』の「謀攻篇」で言う「勝を知るに五あり。以て戦う可きと、以て戦う可からざるとを知る者は勝つ。衆寡の用を識る者は勝つ。上下、欲を同じうする者は勝つ。虞を以て不虞を待つ者は勝つ。将、能にして、君、御せざる者は勝つ。此の五者は、勝を知るの道なり」のすべてが整ったということである。

清盛は軍事的な基本要素も整える。最終戦場として設定した六波羅の空間、その空間が矢合戦となると見なしての武装、兵数、その彼我の比較と計算をする。

清盛はこの段階ですでに河内源氏軍が得意なのが騎馬の突撃であることも考慮している。およそ五、六手ほど先を予測していた、といえるように思える。

自己の利点と欠点、そして敵の利点と欠点を考慮する姿は「彼を知り己を知らば、百戦殆うからず」と「五事七計」がいかなる形で複合的に実践されるかを示している。

つまり河内源氏軍の軍隊としての性格と、その指揮官である源義朝に対して「大凡そ、戦の要は、必ずまづ其の将を占ひて、その才を察す(論将『呉子』)」をも行っていたのである。そして戦力など彼我との比較において勝利の可能性が最大限に高まった瞬間に清盛は決断する。

『平治物語』が華々しく描いている「平治の乱」で展開されている戦術面における個々の戦闘は一連の流れにそって行われる各種側面に対応したものであり、全体計画の中で位置づけられている。

清盛においては戦略という計画も見事ながらも、個々の戦闘がどのような役割を担っているかの認識も見事であり、しかも個々の戦闘でも一切手抜きが見られない。

つまり戦略家としても戦術家としても第一級であった。それは「勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め」に入ったことを意味する。

 

内裏に籠もる河内源氏に対して「火攻」が使えない事情

じつはこの戦略には、降りかかっていた難題への対処が含まれていた。平家(官軍)側は戦闘に際し、新造されたばかりの内裏の焼失を防ぐことを要求されたのである。「火攻」は最も簡単な戦い方であるが、それができない。

戦闘開始前、双方の戦力は平氏3000騎(内裏軍は待賢門=1000騎、郁方門=1000騎、陽明門=1000騎?)、源氏2200騎と『平治物語』には記されている。

河内源氏軍にとっての利点は内裏に籠もっていることで、これが一種「籠城軍」の強みを有していたが、目的も目標もなくただ立て籠もっているだけで、実際はパニックのあまり何をしていいかもわからなくなっていた。

26日、信頼・義朝追討の宣旨に従い平家軍は内裏に籠もる信頼・義朝らの軍勢を討つべく進軍することになった。清盛自身は本営の六波羅にとどまり、総指揮をとることにする。練り上げた戦争計画に従い、全体の進捗状況を見極めながら指示を出すためである。

討手(前線)の大将軍には重盛、頼盛、教盛が選ばれる。清盛の意図としては、戦争の全体計画を立てた上で前線司令官に大綱を理解させ、最終決戦地域をすでに想定して自らがその地にとどまり、最終決戦の準備をしていたのである。

「戦いの地を知り戦いの日を知らば、則ち、千里にして会戦す可し」の最も適切な例といえる。

平家軍は六波羅を出撃、加茂川を馳せ渡り西の河原に控える。一方、内裏の河内源氏軍は待賢門、郁芳門、陽明門を固め、承明、建礼の脇の小門はともに開いて平家軍の攻撃に備えて待機している。

次のページ
「半進半退する者は、誘うなり」

関連記事

アクセスランキングRanking

前のスライド 次のスライド
×