「手勢15名からの逆転完勝」 平治の乱で平清盛が見せた“完璧な合戦”
2019年05月09日 公開 2024年12月16日 更新
「半進半退する者は、誘うなり」
平家軍の進路は既存の文章からは不明であるが、『平治物語』には、「近衛、中御門、大炊御門より大宮のおもてへうち出て、御所の陽明、待賢、郁芳門へをしよせたり」とあるから、直線的な進軍であった可能性が高い。これは「碁盤の目」状態の平安京の道路状況を考えれば、へたな小細工は無用と考えていたのであろう。
最初は直進的にしておいて、後の軍の進退運動により罠をかけようというものであろう。すなわち「凡そ戦いは、正を以て合い、奇を以て勝つ」の一つの例であろう。
重盛は、500騎を大宮面に残して、500騎にて押し寄せ待賢門へ向かう。待賢門の守備は信頼であった。平頼盛は義朝の固める郁芳門へ押し寄せる。
平教盛(経盛?)は源光保・光基らが守備する陽明門に向かった。平家軍の攻撃は一見すると数にまかせた単純な正面突破に見えるが、真の狙いは隠されている。
思慮の浅い悪源太義平は挑発に乗ってきた。軍記物語は義平の華々しい活躍を描写するが、じつは、義平は敗戦にのみ貢献している。重盛が待賢門を破ると、逃げ出した信頼に代わって悪源太義平が防戦、有名な大庭での騎馬戦が繰り広げられる。
『平治物語』では、平家軍は河内源氏軍に撃退されたことが強調されているが、河内源氏軍にとって最大の問題は戦いの末の目的が明確ではなかったことである。対して平家軍は、この小戦闘にさえ目的が明確であった。戦術的目的は戦略的目的に従属しながらはっきりと定められている。
そのために攻めては引き、再び攻めてを繰り返していく。河内源氏軍は「半進半退する者は、誘うなり」と見破らなければならなかったのである。
偽装撤退と退路に仕組まれた罠
待賢門攻略の平家軍指揮官・重盛は機を見計らって大幅に退き、義平は内裏を出て追撃を開始する。
一方の頼盛も郁芳門から引いて義朝の軍勢を誘き出す。その間に平教盛の軍勢が陽明門に迫り、光保、光基は門の守りを放棄して寝返ってしまった。教盛は内裏に入り門を固めてしまう。
ここで平家軍は、偽装撤退を開始し、追撃というおいしい餌を示して「利して之を誘う」ことをしたのである。内裏は平家軍が占領という形になる。
こうしてほとんど無傷で平家軍は内裏を手に入れた。この戦い方は前漢屈指の名将・韓信の「背水の陣」の戦い方に類似している。
内裏を占拠され帰るところをなくした河内源氏軍の目の前で平家軍は六波羅に向かってさらなる偽装撤退を開始する。平家軍は作戦の第二段階に移っていた。
攻撃から撤退を装い、敵を攻撃的な意図の防禦に迎え入れようとしていた。防禦の形をとりながら攻勢を行うのである。つられて河内源氏軍は六波羅まで引き寄せられることになる。判断ミスによって防禦から撤退ではなく攻勢に転じてしまったのだ。
しかも義平は、平家軍撤退路に仕組まれた罠にまでかかった。平家軍は源頼政の陣所前をわざわざ通過する。兵庫頭源頼政は叛乱に加わりながらも戦いに加わらず300余騎にて六条河原に控えていた。
天皇が奪還されたために形勢不利と見て戦いの成り行きを静観することにしたのであろう。頼政の中立に逆上した義平が頼政軍に向かって突入していく。
河内源氏と摂津源氏の死闘が繰り広げられ頼政軍は一時混乱して敗退したが、実際は義平にとっての「崩」そのものとなる。
こうして本来は無用な戦いによる戦力消耗と疲弊、しかも新たなる敵を創出することになった。平家軍は河内源氏軍の戦力消耗とともに、頼政軍をして背後を遮断させる予備軍とすることに成功した。
明らかに『孫子』を熟知していたと思われる『平治物語』の作者は、「天の時は地の利に優る事は無い。地の利は人の和を超える事は無い」と述べる。この「人の和」を失った河内源氏軍に対し「地の利」を得た平家軍が待ちかまえる。「人を致して人に致されず」の典型である。