敵意と不安の結びつきは強固
お風呂に入る時に、母親と子どもがコミュニケーションをとりながら肌と肌を触れ合うことは、子どもの肉体的な欲求を満足させるだけでなく、心の欲求も満たしているといいます。
一方、こうした交流がないと、身体的欲求も情動的な欲求も満たされず、そのせいで不安を感じるようになり、パーソナリティーの中に葛藤を生み出します。
子どもの研究家として非常に大きな功績を残しているボールビーも、「愛する人物に向けられた身体的敵対衝動が存在すれば、不安は著しく増大することが実証されている」と言っています。
敵意と不安の深い関係には幼い頃からのさまざまな人間関係が影響し、それらは分かちがたく結びついているということです。
ですから、相手が不安の症状を持っていることに気がついた場合、その相手は成長の過程で幼い頃にさまざまな問題を抱えている、と考えることができます。
子どもの話をしましたが、恋愛も同じです。例えば、不安に怯える女性が恋愛をすると、恋人が他の女性を好きになるかもしれないという疑念を抱くようになります。
成熟したパーソナリティーを持つ人からすれば、変な話だと思うかもしれませんが、不安な人は小さい頃から信じられる人がいないので、このような感情を持つのはおかしなことではありません。
信じられる人がいない中で成長してきた人が、社会的、肉体的に大人になった時に、「はい、あなたは、この人を信じなさい」と言われても、それは無理な相談です。「この人は私のことを捨てるかもしれない」というような、冷静さを欠いた疑いをどうしても持ってしまいます。
恋愛ばかりではなく、仕事も同じです。過労死するまで、なぜ働きすぎてしまうのかというと「もっと働かなければ、自分は解雇されるかもしれない」という不安を持つからです。幼い頃から、そういう扱いを受けてきているので、自身の中にそのように感じる自分がいるのです。
他人に勝つことで安心を得ようとする
中世のルネサンス以後、文化全体の状況として、他人に優越すること、勝つことが重要視されるようになりました。文化の風潮として他人に優越し、苦難を乗り越えて相手に勝ち誇ることが、あたかも自我実現のように思われるようになったのです。
現在の消費社会の中で、我々はまさにそうした文化の中で生きています。そのため家庭環境に恵まれないと、他人に優越することで安心を得ようと勘違いをする人が現われます。
本来、安心は人との触れ合い、人とのかかわり合いの中で得られるのですから、これは大きな、そして不幸な誤解です。
いまの消費社会は競争社会でもあります。幼い頃に愛情に恵まれた環境の中で生きることができなかった人は、他人に勝つことで安心を得ようとするあまり、敵意のない場所を探すのが難しくなります。